2021-01-16

世界に転がっているもの





本と自分との関係について言うと、年2、3冊買えばいいほうなので、どちらかというと縁がない派に属すると思う。

何か書くときも、たまたま出会った言葉や声の記憶を頼りにブリコラージュ方式で巣作りするため、いきおい雑然とした文章ができあがる。

むかし、ある若いギタリストの、青年期特有の抽象美をはしょらず潜り抜けたはてに豊穣へと達した見事な演奏に心を打たれたことがある。そのギタリストは音楽をはじめてまだ数年にすぎず、類まれな才能に恵まれていたせよ、どうしたって耳の経験値は足りないはずだった。

それなのになぜこんなに成熟した演奏が可能なのだろう? 

わたしは思った。きっとこのギタリストは、幼いころから世界の物音をずっと聞き続けてきたのだと。人々の怒声や悲鳴。けたたましいパトカーの音。ガサ入れのあとの静けさ。儚い匂いさながら家の窓から漏れる話し声。刹那の弾で永劫の的を撃ち抜いてしまったかのような郊外の昼の空虚。そのギタリストの身体にはそうした暮らしの音が沈殿し、一種の熟成を遂げ、この世界にとって音とは何かを掴んだ。それゆえ音楽をふんだんに聴く機会に恵まれずとも、手持ちの音の記憶の駒から、ひとつの理にかなった音楽を紡ぎえたのだ。

むろんこれはそのギタリストに限った話ではない。世界に転がっているものを拾いつづけ、幸運にも熟成させることに成功した者たちの作品は、近づいて見ると彩り豊かで、心に沁み、愛おしく、また離れて見ると思わずあっと叫んで硬直してしまうようなずたずたの疵跡を有している。