2020-05-29

そこにうつわがある



フランス人から俳句についてよく質問されるのだけれど、そのたびにはっとうろたえ、もごもごすることにしています。

これは〈戦略的もごもご〉です。わたしは「ははあ。このもごもごするしか能のない人が俳句を書いているのか」とがっかりしてもらうことが、あんがいだいじなんじゃないかと思っているんですよ。

なんでも滔々と語ればいいわけじゃない。実はいますぐ言葉で説明できることでも、沈黙の方が大切な場合だってある。言葉って、空白の部分も言葉だから。もちろん長い伝統だの、深い歴史だの、豊かな諷詠だの、そんな家柄自慢の釣書みたいなことを語り出したり、俳句に日本文化という血統書がついているかのように振る舞うのはいつだって論外です。

俳句の良さは〈長さ〉〈深さ〉〈豊かさ〉といった世間で幅を利かせる価値とはまったくあべこべの領域で本領を発揮できること。〈はかなさ〉〈うたかた〉〈つかのま〉を大事にするところ。からっぽであることに軽々と耐えうるエキセントリックなところ。死すべき存在であるわたしたちが、ここにまだ見える世界を、あるいはもう見えない世界を歌うためのうつわであること。長い詩なんて書いていたら書き終わる前に死ぬかもしれない。いやかならず死んでしまうだろう。そこでむかしの人は短く書くことを思いついた。できるだけ短く。ときに言葉の意味も捨てて。伝えることも止めて。そして俳句はなにも盛らないうつわになった。なにも盛らないうつわ  それは幸せの具現であり、悲しみの具現であり、怒りの具現でもある。

そこにからっぽのうつわがある。そのことが、すでにして幸せであり、悲しみであり、怒りであり、俳句の素顔であると思う。

あたたかなたぶららさなり雨のふる  夜景