2024-12-28

そんなこと、できるはずもないけど。





巴里雑詠 其一  成島柳北

十載夢飛巴里城 
城中今日試閑行

画楼涵影淪渏水

士女如花簇晩晴

パリあれこれ その1  成島柳北

十年も夢見てた
パリの街にとんできた。

今日はきままに
パリを歩いてみることにした。

絵のような建物が
水に映る
澄み切った水は静かで
影は深く沈んでいる

花みたいな人の群れ
紳士も淑女も
夕映えの空の下
きらびやかに集っている

柳北の詩は香り高い。この詩もシンプルながら、描かれる景色は鮮やか。で、雰囲気がある。「画楼」はセーヌ両岸の建物群。「画楼涵影淪渏水」はその影が水面深くに沈んでいるように見えたのだろう。

十年も夢見てた、との冒頭には少し笑ってしまった。だって成島柳北がパリにやってきたのは明治五年、1872年のことだ。長らく夢見てたというわりに、この詩には当時の政情の影がない。静かな夕暮れの光と、人々のざわめき、澄んだ水に映る影、それだけ。でも、もちろん、それでいい。光だろうと、影だろうと、旅人の目に映るのはいつだって物事の外側。それは今も昔も変わらないし、変えられるはずもない。ただ旅人の目にだけ見える風景があるということも確かで、それはかけがえのないものだと思う。

それに、たとえそこに住んでいたって内側が見えているとは限らない。内側を見たいのなら、自分の想像力で捕まえにいくしかない。しかも捕まえた瞬間、それは形を歪める。見えないものをどう見るかはいつだって見る側の責任だ。

これは詩を訳すときにも言えることかもしれない。たとえば成島柳北の詩を訳すのは絵の構図を決めていくような作業だ。どこに色を置くのか、どこを空白にするのか。そうやって詩の形をつくり上げる。一方で、菅原道真の詩ならば言葉の内側を追いかけていく。それは、目をとじたまま手触りのある何かを掴みにいくような、奇妙で少し怖い感覚だ。出来上がりが壊れていたってかまわない。それが書き手のいる場所に寄り添った結果ならば。

書き手の立ち位置に立って、同じ景色を見て、同じ風を感じて、その感覚を言葉に移し替える。そんなこと、できるはずもないけど、でも翻訳が目指すのはそういう地平じゃないだろうか。人はひとりひとり、立っている場所が違う。そこを、そうか、と頷くこと。

2024-12-24

くじに当たる





ほんの3日前、繁華街でまないたを買ったらクリスマス抽選くじを1枚もらった。その場でくじを引いたらなんと1等が当たった。7000分の1の確率だそう。1等の景品はハンス・ウェグナーのYチェア、ビーチ材ソープ仕上げである。さっそく届いたので部屋にあるオーク材のYチェアと並べて撮影。こんなことってあるんですね…。

まないたを買ったそれだけなのに今くじの半券にぎりしめてる
確率の冥き渦中にわれ置かれ七千に一の奇跡をつかむ
「一等が当たりました」と渡されしカードの裏のイエスの言葉
無作為の連鎖の果てにここに在りオークと並ぶ新らしき椅子
まさかねと口にしてみるそのたびにビーチの椅子はそこにたたずむ

2024-12-20

小津夜景×永井玲衣×穂村弘トークイベントのお知らせ



年が明けたら東京行き。トークイベントに参加するためである。聞けば開始時刻がライヴみたいに遅い。思わず三省堂書店の営業時間を調べた。二十時まで、だった。なるほど。つまり、営業終了後にイベントが始まるってことか。

イベントのタイトルを見ると「言葉の魔術師」とあり、ええっとおののく。おののきつつ、でもこういうストレートなネーミングは逆にありがたいのかもしれない、と考え直す。いやいやいやと否定しやすいし、文句もつけやすい。つまり話が初手から、ずん、と前へ進む。明確な的があるほうが、ボールも投げやすいってものだ。


2024-12-16

まだ何も飾らない日



エスプレッソマシンをあつかう手つきが、少しこなれてきた。小さな台所も急に落ち着いて、なんだか背が伸びたみたいに感じる。マシンの上の壁には、空っぽのフレームが四つ並んでいる。新しい道具に合わせるのだ。

パソコンをひらき、壁に飾る写真を探す。とりあえず二枚選んだ。一枚は駅の小屋。錆びたトタン屋根、ひび割れたコンクリート、炎帝に射抜かれた影。そこに漂うのは、ひと昔前の、田舎の夏のにおいである。もう一枚は海。ひろくて遠い。どちらも、ふっと奥に引き込まれる感じがする。写真の奥へ、奥へと入っていけそうな気がする。

蒸気上げ正確無比なマシン鳴る抽出時間十二秒ぴたり
濃密な一滴ごとの正確さ小宇宙生む蒸気の技術
ちょっと待てエスプレッソがそう言ったそんな急ぐな人生だってさ

2024-12-14

向き不向き





エスプレッソマシンは私には向いていなかったかもしれない。カフェだと、シュッ、ガッチャン、ポタポタ、シャッという音とともに、コーヒーがすぐ出てくるが、家ではそうはいかないのだ。豆量、温度、圧力、時間。考えなくちゃいけないことが多すぎる。マシンに手をかけているうちに、あっという間に時間が過ぎる。自分でお湯を沸かして、豆を挽いた方がずっと早い。

新連載の原稿を送った。書いては直し、書いては捨てた。迷いながら書いた。こんなふうでいいのだろうかと考えながら、でも、書き終わった。反故がいっぱいでた。短歌もまぎれている。

金盤の月をひとつぶ頬張れば甘さ苦さのあはひに落ちる
日は流れ影は薄れてわたくしの齒牙に残れる甘さの破片
誰かへのおみやげだったはずなのにわたしがここで食べている午後

マカロンの、レモンクリームの、ほろ苦かった思い出から生まれた歌。類想があるかもしれないな、とぼんやり考える。

2024-12-13

句集『花と夜盗』増刷の知らせ





あいかわらず「すばる」にエッセイを書いている。そうたしかに書いている。でも送稿したあとはなにもおぼえていない。いま発売中の号では今福龍太『霧のコミューン』の書評も載っている。今福さんの本はずっと読んできたので、恐れつつ書いた。

句集『花と夜盗』増刷の知らせが来た。それで誤字脱字のチェックをしていら、この本、なんでこんなに肌に合うんだろうと次第に不思議な気分になってきた。本当にびっくりである。エッセイに関してはそんな風に思ったことがない。いつも違う、こうじゃない、と困りはてているのに。

新しいエスプレッソマシンが届いた。デロンギのラ・スペシャリスタ。あたたかい飲み物を淹れるという行為はわたしにとって時間に句読点を打つようなもの。とても大事な気分転換である。とはいえ、いかんせん句読点が多すぎるのがこのところ深刻な問題と化していた。台所でうろうろする時間が書く時間を侵食している。で、半分自動化せねば、と。これで改善されるかどうかは未知数だけど。

2024-12-11

近況報告





写真は先週のル・アーヴル。凍てついています。

初夏からずっとごろごろしていたのですがブログを再開しようと思っています。ブログだけでなく新刊の原稿も書き始めています。本当だったら今頃『いつかたこぶねになる日』の続編が出ているはずが、のっそり起き上がったのが先月中ごろで、恐る恐る動き回ってみると通常運転に戻ってもだいじょうぶそうなので。

あと来年一月一日から新しい連載がはじまるのですがその原稿も書いていなかったんです。で、やらないとなあ、やらないとなあと焦りながら、ここ一ヶ月くらい熊みたいに家の中をうろうろしていたのがやっと今朝から、そうまさに今朝ですよ、勢いよく文字がほとばしりだしてほっとしているところ。それでブログを書く余裕も生まれた次第。原稿を書くと反故がいっぱい出るので、それをこのブログにのっけていけたらいいなと思っています。