2017-01-30

生き急ぐことの悲しみ



他人の句集を読むと、すばらしい発見がたくさんあって、それが自分の作品を図らずもどんどん上達させてしまうわけだが、わたしは俳句と出会ったことが本当に嬉しく、そのささやかな秘密をなるべく自力で突き止めたいし、ややこしい部分ともできるだけ時間をかけて戯れたいので、句集をつぎつぎ買うというふるまいを今はまだしないようにしている。

いま家にあるのは、人から頂いた句集が20冊と少し。そして自分で買った日本語の句集が5冊である。

わたしは生き急ぐような書き方には耐えられない。

早足は悲しい。あてもなく、きままに歩くたびに出くわす発見を、ときに愉しくまたときに辛い体験を、そんな〈いまここの充実〉をできるかぎり引き伸ばしていたい。予期せず出会ったこの形式に、なるべく長い間、まだなにも知らない心もちで触れていたい。


だから、このような意識がまったくわからない。手引書が必読? なぜ時をせかし、道をいそぐ必要があるのか?

わたしにとってハウツー本を読みながら俳句を書くというのは、解答のページを覗き見しながら問題を解くのに等しい。

わたしは手元にある数少ない句集を、なぜかこの手に届けられたことの不思議を感じながら、なんどもなんどもなんどもなんども繰り返し読むのが好きだ。

2017-01-28

旅の途中で





旅の途中、アンリ・カルティエ=ブレッソン財団へ行ってみたら『逃げ去るイマージュ(Image à la Sauvette)』のオリジナル写真展をやっていた。友達のマチスにつくってもらった表紙もあった。


昔、西原天気『けむり』のレビューで、彼の句の流体的特色を説明するのにカルティエ=ブレッソンに話が及んだことがあって、その際この写真家ついて次のように書いた。

『決定的瞬間』と題された英語版写真集が世界に与えた衝撃によって、その原題『逃げ去るイマージュ』が人々に一時忘れられたことはよく知られる事実だが、彼の作品の重要な特質が、瞬間=永遠性の凝固よりもむしろ「凝固以前のひろがり」にあることは、しばしば指摘される通りである。加えて写真集の表紙が彼自身の作品ではなく「永遠に反復される暫定性」をこれまた軽やかに具現したマチスの切り絵だったことも、彼とイマージュとの関係を端的に示しているのではないかと思われる。カルティエ=ブレッソンもまた、本人の意図をはるかに越えたところで「世界の一挙的再現性」という神話的言説(これを単純に「ポエム的発想」と言っても構わないが)にとりこまれた一人だった。(流体領域 西原天気『けむり』を読む

「世界の一挙的再現性」とは、つまるところアドレッセンスな夢にすぎない。それは、モノをつくる人間にとって〈醒めつつ眺める夢〉であってほしい、と思う。

これもあのデュシャンの泉かじかめり  西原天気

2017-01-27

俳句読みと短歌読み



伝説のロックンロール! カンナの、黄!  福田若之

あふれる幸福感の演出とその才筆とが、俳句読みたちに受けている掲句。いっぽう短歌読みがこの句を読んだ場合、塚本邦雄『感幻樂』の連作「羞明・レオナルド・ダ・ヴィンチに獻ずる58の射禱」にある次の歌が頭にちらつくのでは?とおもうのだけど、どうなんでしょう。

靑春は一瞬にして髭けむるくちびるの端(は)の茴香(うゐきやう)の oui !  塚本邦雄

福田の句と塚本の歌は、音楽(ロックンロールvs感幻樂)、伝説および青春との関連性、結句のキメ型、と驚くほどの要素を共有している。

もちろん両作品には差異もある。もっとも目を引く差異は〈若さと老い〉のそれだ(作者のではなく、作中で想定されている人物の年齢です。念の為)。塚本歌の「茴香」の諧謔ときたら、本当にこの上ない。己に対する喘ぐような嘲笑の籠った「oui!」もまた然り。このどこまでも直球の歌がえもいわれぬ魔球に見えるのは、作中人物の理想主義的性格と実際の仮借なき人生との関係が、まさに襞のごとく入り組んでいるからだろう。

「羞明・レオナルド・ダ・ヴィンチに獻ずる58の射禱」は人生の苦みと精神の若々しさとが織り成された連作。謎にみちたモナ・リザの微笑を借景とした次の歌も、ああ、といった感じ。

ほほゑみに肖(に)てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺  塚本邦雄

燃え上がる火の渦に抱かれて微笑むピアノ。美のイデアの不可触性をひしひしと感じさせる。

2017-01-23

アルプス山脈





なんだか、修行、って感じの寒そうな景色。

こういう景色を見ても、大人になるまで北海道で厳しい冬を過ごしてきたせいで、神秘とか、憧れとかいった気持ちが全く湧かない。昔の北海道はほんとうに寒かった。だって朝目覚めると、自分の寝息で、睫毛に霧氷がうっすら張っているんですよ。

2017-01-18

波の竪琴



今までいろんな海とつきあってきたけれど、南仏で暮らすようになって、わたしは波というのが、ぽろろん、ぽろろん、と竪琴みたいに音を奏でることをはじめて知ったんです。楽園みたいに。

でも人と話しているときに「あの、私の住んでいる町では、波の音が、ぽろろん、ぽろろん、なんですよ」と言うとかならず変な顔をされるし、話している本人も、うーん、不思議ちゃんが放ちそうな台詞だなあ、とがっかりしてしまうんですね。

で、妄想じゃないことを示したくて、このお正月、波の音を採取することに。ヴォリュームを上げると、波の引く音が粒立って聞こえるはず。あいにくこの日は曇り空だったこともあり、いつもより響きが低く硬かったのですが、夏の太陽の下だと、もっと明るい丸みを帯びるようになるんですよ。

2017-01-16

かもめと天金の書





ポリネシアに住んでいる知人がいる。

ポリネシアには200以上の島があるそうだ。彼女は家事のかたわらそれらを回り、さまざまな風物の写真を撮ってはちょくちょく送ってくれる。

ところでこの知人、びっくりするほど語学と古典に強い。数カ国語が話せるのはもちろんのこと、言葉の背景についてふと思いつきで質問すると、その語源をヘブライ語と古代ギリシア語とラテン語で教えてくれる(ここまで来ると努力だけでなく、たぐいまれな才能が要りそうだ)。その上とても親切で、尋ねられてわからないことがあると、わざわざ調べてもくれる。

いま彼女に調べてもらっているのは「福音を運ぶ鳥、といえば鳩がポピュラーだけど(例『良き福音を伝える鳩、そして聖霊の働きを起こす鳩』ルカ17:22-30)、これは文献的に例外がないのか? たとえばカモメだった事例などはないのか?」ということ。

なぜこんな疑問を抱いたのかというと、三橋敏雄〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉のカモメは福音のシンボルも兼ねているのかしら?とさいきん思ったから。広く知られている天金の書物といえば聖書だろうし、聖書をひらくと現前する鳥なら福音を体現していておかしくない。

もっとも上の疑問は、句の解釈が古代キリスト教に関する疑問へと横すべりしただけで、わたしが敏雄の句をそう読んでいるという意味ではない。わたしの脳内では「天金の書」はシェリーの詩集で映像化されており、またそれゆえ「かもめ」はこの詩人所有の帆船エアリアル号がかつて停泊していた〈地中海の光〉の記憶を蘇らせる装置なのである。

リフレイン好きのわたしのために注ぐシェリィ 南に帆船ありし  紀野恵

2017-01-15

コンニャクで、闘争する。



日記をはじめて5ヶ月ほど経つが「今日はブログに輪島功一について書こうかな…」と呟くとそのたび同居人が「おまえは輪島の何を知っているというのだ」と詰問してくるため、いまだに輪島のことが、書けない。

普段はなんの話題にしてもいいかげんに書いているのに、輪島のことだけそうできないというのは、よほどレスペクトしているのかもしれない。

ところで先日三島ゆかりのブログを読んでいたら嵯峨根鈴子『ラストシーン』をこのように評していた。

『あしたのジョー』の最後のホセ・メンドーサ戦でコンニャク戦法やトリプル・クロス・カウンターを繰り出す矢吹丈のように嵯峨根鈴子が技を尽くす。

コンニャク戦法…この手があったか。これまでの自分は対象にまっすぐ迫ろうとしていたからダメだったのだ。かくなる戦法を見倣って、周囲の判断がけっして追いつかないような意味深遠な持論を以てすれば、いつでも日記に輪島を登場させることができたであろうに。思いつかなかった自分が情けない。

で、話は輪島ではなく嵯峨根のこと。彼女の句を「コンニャク」といったのはすごい慧眼だと思う。しかしながら脳内でヴィジュアル化するに、その句風は矢吹丈のコンニャク戦法ではなく梨田昌孝のコンニャク打法に近いだろう。どうかんがえても。

龍天にのぼる放屁のうすみどり  嵯峨根鈴子

2017-01-14

未決への決意



荻原裕幸に「世ハ事モ無シ」という20句連作がある。

世界征服やめて何する花は葉に  荻原裕幸

連作の冒頭が、いきなりパフォーマティヴな香りの濃厚な初句7音。凄く肌にあう。わっと長い棒を振り込まれたみたいで血が湧く、というか。

また「世界征服」という派手な棒を振り込みつつ、そのすぐあとに「やめて何する」と翻ってみせるのも荻原流。「世ハ事モ無シ」はそのタイトルが示すように、ある種の諦観を匂わせる連作だ。

片蔭のこれはマヨネーズの蓋か    〃 
見つからぬリモコン一つ秋の暮    〃
一同皆けむりのごとし去年今年    〃 
行きつけの書店なくなる春夕焼    〃

こうした「ポップさと欠如との同居」や「抒情への、すっと身を引くような距離のとりかた」から『あるまじろん』を思い出さない人は少ないだろう。

紫陽花に来て止まりをり郵便車    〃

どうして「紫陽花」と「郵便車」との組み合わせが〈すんでのところで爆破されそこねた世界〉めく緊張感を感じさせるのかは不明である(いや本当は不明でないのだが、今夜はそういうことにしておく)。だが作家とはそういったレシピを発明する人(塚本邦雄はこの手の膨大なレシピを残して死んだ)のことであるとすれば何のふしぎもない。そういえば、荻原にはこんな歌もあった。

戦争が(どの戦争が?)終わったら紫陽花を見にゆくつもりです
冬陽あびて世界ほろぼすひとことを配りわすれた郵便車たち

全てが終わってしまっているはずなのに、なぜか終わることの許されない我々の延命的日常、といった視座はつねにこの作家についてまわる。すなわち荻原作品の根幹には、消滅願望という超越的な自我と、その不可能をはっきりと受け入れる理性的態度とのあいだの〈引き裂き〉が存在し、また同時にこの〈引き裂き〉が結論として作者にうながす〈未決に留まる決意〉は、荻原作品のエチカそのものを形成してもいるのである。

ざくろ咲くひつぎの窓の蝶番  荻原裕幸