本を一冊つくるということは、ひとりの読者へのたよりだと思います。最初の本を出したとき、いまから三十七年前にはそう思ってはいませんでした。いまは、そう思います。ひとりの読者に出あうということが、書くことの目的です。その読者が自分自身であるとしても、それでもむくいられます。— 鶴見俊輔bot (@shunsuke_bot) 2017年6月5日
先日の週刊俳句でのインタビューの話。
あの中に「この本は田舎の女の子に触ってみてほしい」との発言がある。あれはインタビューで語った通り、自分の読書(眺書?)遍歴を追憶しての、単純でたわいのない思い入れ、いわば錯覚だ。
当然のことながら〈かつての私〉はもう何処にも存在しない。にもかかわらず〈かつての私〉の存在を無視することが、私にはできない。
たとえ今現在、目の前に〈かつての私〉よりも大切な人がいて、その人のことを想いつつ言葉を選んでいるような時でさえも。
李白が月を向きながら、おのれの影とおのれとの間で酒を酌み交わしたように、わたしは海を歩きながら、水面に朦朧とするかつての自分と、いまの自分との間で、あの本を書いた。
そしてまた、別に何かを書いたりしない場合でも、それが私によくある、一人の時間の過ごし方なのだった。