2020-01-10

言の葉、さわさわゆれる





俳句における言葉とのつきあい方にはいろいろありますが、わたしは言葉を手段として何か(内面とか風景とか)を表現するのではなく、言葉そのものを目的として取り扱いたい系です。

と、こう書くと、前衛的な言語遊戯を思い描く人が多いと思うのですがそれとは違うんですよ。前衛って言葉を自己意識に従属させているじゃないですか。そうではなく、生きていて、ふいに風や空気と遭遇する瞬間のように、意味と無意味のはざまをさわさわとゆれうごく言の葉のうごめきに驚きたいのです。つまり、言葉それ自体のふるまいを可視化したら楽しいだろうなってこと。まあ、そんな句は、なかなか生まれないのですけれど。

あかさたなはまやらわをん梅ひらく  西原天気

はじめの〈あ〉からおわりの〈ん〉まで50音表を水平移動するかと思いきや、ふいに〈を〉へ沈んでみせるといった掲句の調子は、まるでモビールの水平揺動&空中浮遊を形にしたかのよう。動く言葉、宙に浮かぶ文字  とても美術作品っぽいなと思います。

ちなみにこのような浮遊感覚は〈いろはにほへとちりぬるを〉では生じません。〈あかさたなはまやらわ〉は母音がA音オンリーであっけらかんとしているし、いろは歌と違って意味から解放されているし、地を這いくねるような重力や線分性からも縁遠い。〈をん〉の響きもA音とのよき掛け合いになっています。

なんだか、言葉がくすくす笑っているみたいです。