2021-02-24

しろい、ちいさい、いっぱいの共鳴





池澤夏樹さんとのトークイベントが近づいてきたので、もういちど宣伝。リアルタイム配信が26日(金)午後3時からで、アーカイヴ配信がその後1週間です。アーカイヴで見たいという方も、26日(金)までにこちらからご予約ください。

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あたりまえのことだけれど、人生経験の豊かさと、詩歌を読んで何かを感じる力とは、まったく別だ。

たとえこの世界を描写していたとしても、詩歌の中に流れる時間は物理的時間ではない。そして詩歌を読むことで養えるのは、いつでもこの、経験的浮世とは一線を画した観念の血肉である。

そのことを直感する者は、たとえ人生経験の乏しい子供であっても詩から多くのものを受け取る。子供は詩歌に書かれた内容を、自らの経験と照らし合わせて感嘆することはないかもしれないけれど、その代わり詩歌の言葉そのものを、未知なるものとして体験する。この〈言葉そのものの体験〉は、自らの経験と照らし合わせて言葉を腑に落とすことにもまして、詩歌と深く向き合う可能性を秘めているだろう。

しろい小さいお面いっぱい一茶のくに  阿部完市

完市の句は変わっているようで、あんがい意味の通らないことは書かれていない。掲句も信濃の風景をリリカルに描いてみたようだ。そして同時に、ここには浮世とは一線を画した観念の時間が流れている。それぞれの言葉はあたかも暗号のように観念と具体とをいったりきたりしながら瞬いているし、またその瞬きが振動となって作品世界に響き渡ってもいる。

いったい、この句を読んで、浮世の経験だけが書かれていると思う人はいるのだろうか? わたしには〈しろい〉〈小さい〉〈いっぱい〉の〈お面〉が、観念と具体との瞬く共鳴を体現する、きれいな鈴のように思われてならないのだけれど。

(ハイクノミカタより)