2023-06-07

黙りの中に刻まれた世界





標識にニースと書いてありますが此処はル・アーヴルです。今朝の撮影。何もない、映画のような美しさ。

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母の記憶によれば、わたしは一歳十か月ごろに、壁に貼られたひらがな表をじっと見つめて「き」や「いぬ」のような文字を読み始めたという。

書き言葉への反応が早かったのとは逆に話し言葉の発達は遅く、三歳に近づいても文を話さなかった。誰に話しかけるにも一語しか発しない。母に水をもらうのにさえ「おぶ」としか言わなかったため言葉の教室に連れて行かれた。

そのころから現在に至るまでわたしは一貫して無口である。喋る体力がないというのも大きいが、ほかにも理由がある。頭の中で、ひっきりなしに何かが刻まれている感触があり、それに邪魔されて喋ろうとしても口がうごかないのだ。刻まれているのは読めない走り書きみたいなもの。言葉が形作られる前の未踏のリフ。概念が固まる前のヴァイブレーション。酔った蜘蛛が織りつづける巣のような狂った構造物。言葉なき世界の痕跡がどのようなものなのか、目で見ることも、耳で聞くこともなしに、わたしはただ感じてきた。何十年も。頭の中を、走り書きに、しつこくまさぐられる感覚を。