2024-12-16

まだ何も飾らない日



エスプレッソマシンをあつかう手つきが、少しこなれてきた。小さな台所も急に落ち着いて、なんだか背が伸びたみたいに感じる。マシンの上の壁には、空っぽのフレームが四つ並んでいる。新しい道具に合わせるのだ。

パソコンをひらき、壁に飾る写真を探す。とりあえず二枚選んだ。一枚は駅の小屋。錆びたトタン屋根、ひび割れたコンクリート、炎帝に射抜かれた影。そこに漂うのは、ひと昔前の、田舎の夏のにおいである。もう一枚は海。ひろくて遠い。どちらも、ふっと奥に引き込まれる感じがする。写真の奥へ、奥へと入っていけそうな気がする。

蒸気上げ正確無比なマシン鳴る抽出時間十二秒ぴたり
濃密な一滴ごとの正確さ小宇宙生む蒸気の技術
ちょっと待てエスプレッソがそう言ったそんな急ぐな人生だってさ

2024-12-14

向き不向き





エスプレッソマシンは私には向いていなかったかもしれない。カフェだと、シュッ、ガッチャン、ポタポタ、シャッという音とともに、コーヒーがすぐ出てくるが、家ではそうはいかないのだ。豆量、温度、圧力、時間。考えなくちゃいけないことが多すぎる。マシンに手をかけているうちに、あっという間に時間が過ぎる。自分でお湯を沸かして、豆を挽いた方がずっと早い。

新連載の原稿を送った。書いては直し、書いては捨てた。迷いながら書いた。こんなふうでいいのだろうかと考えながら、でも、書き終わった。反故がいっぱいでた。短歌もまぎれている。

金盤の月をひとつぶ頬張れば甘さ苦さのあはひに落ちる
日は流れ影は薄れてわたくしの齒牙に残れる甘さの破片
誰かへのおみやげだったはずなのにわたしがここで食べている午後

マカロンの、レモンクリームの、ほろ苦かった思い出から生まれた歌。類想があるかもしれないな、とぼんやり考える。

2024-12-13

句集『花と夜盗』増刷の知らせ





あいかわらず「すばる」にエッセイを書いている。そうたしかに書いている。でも送稿したあとはなにもおぼえていない。いま発売中の号では今福龍太『霧のコミューン』の書評も載っている。今福さんの本はずっと読んできたので、恐れつつ書いた。

句集『花と夜盗』増刷の知らせが来た。それで誤字脱字のチェックをしていら、この本、なんでこんなに肌に合うんだろうと次第に不思議な気分になってきた。本当にびっくりである。エッセイに関してはそんな風に思ったことがない。いつも違う、こうじゃない、と困りはてているのに。

新しいエスプレッソマシンが届いた。デロンギのラ・スペシャリスタ。あたたかい飲み物を淹れるという行為はわたしにとって時間に句読点を打つようなもの。とても大事な気分転換である。とはいえ、いかんせん句読点が多すぎるのがこのところ深刻な問題と化していた。台所でうろうろする時間が書く時間を侵食している。で、半分自動化せねば、と。これで改善されるかどうかは未知数だけど。

2024-12-11

近況報告





写真は先週のル・アーヴル。凍てついています。

初夏からずっとごろごろしていたのですがブログを再開しようと思っています。ブログだけでなく新刊の原稿も書き始めています。本当だったら今頃『いつかたこぶねになる日』の続編が出ているはずが、のっそり起き上がったのが先月中ごろで、恐る恐る動き回ってみると通常運転に戻ってもだいじょうぶそうなので。

あと来年一月一日から新しい連載がはじまるのですがその原稿も書いていなかったんです。で、やらないとなあ、やらないとなあと焦りながら、ここ一ヶ月くらい熊みたいに家の中をうろうろしていたのがやっと今朝から、そうまさに今朝ですよ、勢いよく文字がほとばしりだしてほっとしているところ。それでブログを書く余裕も生まれた次第。原稿を書くと反故がいっぱい出るので、それをこのブログにのっけていけたらいいなと思っています。

2024-09-28

机に出しっぱなしだったCD





本棚の整理をしたあと、しばらく机の上に出しっぱなしだったCD。全くなんの意図もありません。とりあえずブログを更新するために写真を撮りました。

この中で最も古いのは高三の冬に買ったKEITH JARRETT TRIO "THE CURE"で、一番最近のものは遊佐未森『潮騒』。Orchestra a Plettro di Taormina "Mandolini a Taormina"は「タオルミーナ民謡ってどんな感じだろう?」と思ってシチリア島の鄙びた土産物屋で購入。聞いてみたらトレモロ奏法が光の粒そのまんま。そうか、この世ってこんなにも夢だったんだな、と涙した。

2024-08-25

日暮れの散歩



夕方、かっこいい楽器にまたがったパフォーマーと出くわす。ひとしきり演奏したあとは、車体のハンドルを握ってなめらかに去っていった。


動画はこちら。

2024-06-25

帯状疱疹とトークイベントと私





7月18日のトークイベントは盛況のうちに終わりました。ご来場、ご視聴の皆様ありがとうございました。吉村萬壱さんは物腰が柔らかくて優しくて、だらりんと力の抜けた人(あるいは一種の脱力によって自らが抱えている浅からぬ業をいなしているのであろうか?)。なんか世間的な雰囲気が全然なくて、一緒にいると子供に戻った気分になれる、そんな人でした。結論としては、また会いたい、絶対会うんだって気持ち。

この春以降『カモメの日の読書』が4刷、新潮文庫版の『いつかたこぶねになる日』が2刷になったのですが、ここへ来て『ロゴスと巻貝』も増刷されることが決まりました。わーい。どうもありがとうございます。

それから帯状疱疹のほうは、後遺症が残ってペインクリニックに通う羽目になっています。ブログを書いていなかった理由もひとえにその痛みゆえでして、トークイベントの前日などは朝から悶絶し「人前で話すなんて無理だ」と心底思っていたのです。ところが注射を一発打たれたら、怖いですねえ、痛みがすっと消えてしまいました。昨日は2回目の注射を打ったんですが、自覚症状としてはもうかなりいい感じ。

Xの書き込みを遡りますと(いや、わざわざ遡らずとも伊藤亜紗、奥野克巳、吉村萬壱共著『ひび割れた日常――人類学・文学・美学から考える』所収のエッセイ「帯状疱疹とウイルスと私」に状況がつまびらかですが)、吉村さんは帯状疱疹の後遺症でペインクリニックに通った際、なんとお腹と背中に5か所(!)も注射をされたとか。なんとも気の毒。わたしは毎回1か所だけですんでいます。イベントの日は控え室で七転八倒な経験談をお伺いして「あたしは不幸中の幸いだったんだわ」と震えた次第です。

2024-06-12

古典を読む人生とは





帯状疱疹の病状はまあまあ。腫れは引いたけれど痛みは残っているので、だいたいの時間を横になっています。そうすれば痛みが和らぐので。

最新号の『すばる』は「古典のチカラ」特集。わたしもエッセイを寄稿しています。古典といってもカノンの話はしたくないので、「昔の作品=なんでも古典とみなす」と断った上で思っていることを書きました。

わたしはナイーヴな啓蒙にはうんざりする質だし、古典を読む行為を教養に結びつけたくもないので、今回のエッセイも古典を語ることで生じかねないある種の「力」を無効化するために断章形式で対処したのですが、それでも古典を読むコツをきかれたら「できるだけ多くの先行研究を読むこと」と答えるしかないと思っています。古典を読むことと学ぶこととは切り離せない、自分の勝手な想像だけで読もうとしたところで古典の肉は噛みきれないし、一人の人間が考えられることなどたかが知れている、わたしたちは解釈のバトンを受け継いでようやく今ここに至っているのだといった認識は前提として必要だろう、と。

あと古典を読むとは「テキストを読了すること」に価値を置かない人生を送るということでもあります。つまり古典と付き合うことは必ずや生き方の次元にかかわる。生き方そのものが変わる。この世の中が「本を読み終えた」という台詞を口にする人間だらけになったのって古い話じゃないですよね。なにしろ印刷技術と出版流通システムの普及なくして読書を娯楽にするなんてことは不可能なわけですから。本が貴重だった時代は誰しも同じ本をくりかえし真剣に読んでいた。そういった意味で、読書の歴史は読者の生き方の歴史でもあるでしょう。