2022-03-31

海原と雪原、あるいは二人の私



前回の話のつづき。

自分が変わったことを「ふしぎだなあ」と思えるのは、以前の自分にかんする記憶があるからだ。

過去の記憶がなくなってしまったら、自分が変わったということに気づきようがない(自分が変わってしまったことに気づかない人って、たまにいますよね?)。

わたしの場合は、心の芯の部分に、ぬいぐるみや甘いものが嫌いな「昔の自分」がいまだしっかりと鎮座している。そして「ふしぎだなあ」と思う「今の自分」とすこやかに同居している。

北の大地で生まれ、東京、奈良、京都、パリ、トゥールーズ、ル・アーヴルを経てニースに来たわたしは、地中海の素晴らしさに打たれて一度死に、にわかに生まれ変わった。ほんとに、ばったりと死んで、蘇ったのだ。しかし蘇ったといっても人間が新しくなったわけではない。人格形成期の体質や自我は、消せない手術痕のように、心身のいたるところに残っている。

そして現在は、ふたつの実存が縫い合わさった気分で日々暮らしている。

だから海で遊んでいても、「今の自分」を「昔の自分」が目で追っている感覚がしょっちゅう起こる。あるいは「昔の自分」に「今の自分」が遭遇する瞬間も、ある。今日だって岩によじのぼって海を眺めながら、目をとじるとそこにうかぶのは、果てしなくひろがる白く何もない雪原だった。