2023-01-04

その光の届かぬ場所は春の河のどこにもなかった





春江花月夜 張若虚

春江潮水連海平 海上明月共潮生 灩灩随波千万里 何処春江無月明 江流宛転遶芳甸 月照花林皆似霰 空裏流霜不覚飛 汀上白沙看不見 江天一色無繊塵 皎皎空中孤月輪 江畔何人初見月 江月何年初照人 人生代代無窮已 江月年年祗相似 不知江月待何人 但見長江送流水 白雲一片去悠悠 青楓浦上不勝愁 誰家今夜扁舟子 何處相思明月樓 可憐樓上月裴回 応照離人妝鏡台 玉戸簾中巻不去 打衣砧上払還来 此時相望不相聞 願逐月華流照君 鴻雁長飛光不度 魚龍潜躍水成文  昨夜閑潭夢落花 可憐春半不還家 江水流春去欲盡 江潭落月復西斜 斜月沈沈蔵海霧 碣石瀟湘無限路 不知乗月幾人帰 落月揺情満江樹

春江花月の夜 張若虚

春の長江の潮は海へとつらなり平らかで
潮の満ちるにつれて見事な月が昇ってきた
きらきらと 波から波へ 千万里
その光の届かぬ場所は春の河のどこにもなかった
河はゆるやかにながれ かぐわしい野をめぐり
月は盛りの林を照らし 花という花が霙のよう
宙に泛ぶ霜は 飛び交っても気づかれず
渚の白い砂も 輝きと見分けがつかない
河も天も一色 あるかなきかの塵もなく
煌々と空中に ひとりぼっちの月がある
この畔ではじめて月をながめたのはだれだったのか
この月がはじめて人を照らしたのはいつだったのか
人間は世につれて入れ替わってゆくけれど
長江の月はどれだけ時がめぐっても昔のまま
わたしは知らない 月がだれを待っているのか
ただ目に映るのは長江を流れてゆく水ばかりだ
白いちぎれ雲が彼方へと去れば
青い楓の入江で愁いがわきおこる
だれだろう 今宵の小舟にゆられている旅人は
どこなのか 明月の楼閣でその旅人を思う人は
ああ 高殿の上に月がさまよっている
きっと夫と離れた妻の鏡台を照らしているのだ 光は
美しい戸の簾の中に巻き込んでもこぼれてしまい
衣をうつ砧の上から追い払ってもまたしのびよる
今このとき互いに月を仰いでも交わせぬ思いよ
叶うことならば月光を追って流れて君を照らしたい
けれど遠のく雁と違って月光は地をわたらず
魚はのたうって水面に文字を綾なすばかり
ゆうべは静かな淵で花の散る夢をみた
ああ 春も半ばなのにまだ家に帰れないなんて
河の水は春を押し流し、春は尽きようとする
河の淵に落ちかかった月がまた少し西に傾いた
傾いた月はひっそりと海の霧に隠れてしまった
碣石山から瀟湘まではてしない旅路はつづく
月に乗じてどれほどの人が故郷に帰ったことだろう
心は揺れ 月は落ち 河辺の樹を残照で包んでいる

* * *

張若虚は初唐の詩人。この七言古詩「春江花月夜」はべた凪の満潮に満月がのぼり、夜半をまわり、西の空に満月がしずむところまでを一篇の詩にしたもの。ココ・パイナップルを食しつつ訳し、『唐詩選』の通釈と見比べてみたらところどころ違うのですが、とりあえずこのまま投稿します。いろんな論文を確認して、時間のあるときに推敲しようと思います。

漢詩にとって文字のかたちや並べ方というのは超重要ですが、François Cheng "L'ecriture Poétique Chinoise"によると、「流れ」に象徴される時空の永遠性に「月」に象徴される人生の高揚、すなわち平面性と垂直性を交差させたこの詩の冒頭は、漢詩が視覚重視の文芸であることを説明するのに大変うってつけです。

春江潮水連海平
海上明月共潮生
灩灩随波千万里
何処春江無月明

このように、この詩を二元論的にコントロールする水という字「江・潮・水・海・灩・波」と、月という字「潮・明・月・随」とがふんだんに使われていることがわかります。また「潮」には水と月の両方が隠されているといった具合です。