2023-05-11

夢を混ぜる





すばる6月号の連載「空耳放浪記」は「香りとともに消えた男」と題して、エルメスの天才調香師といわれたジャン=クロード・エレナの俳句観やらなにやらについて書いています。

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いつだったか、インドから遊びにきたベンガル人の友だちと料理の話をしていたら、こう言われた。「フランス料理ってボトムが軽いよね」

まったくもってその通りだと思う。とはいっても、人が滋養を感じるものには文化を超えた共通点が少なくないし、フランス人がボトムの重さを理解しないわけでもない。スープひとつとっても、伝統料理においては北のコトリアードやビスク、南のブリードやブイヤーベースといったふうに、さながらグルタミン酸讃歌とでもいうべき、舌にねばりつく濃厚な旨味が好まれてきたのだ。でもベンガル料理とくらべれば、たしかに昨今の軽さは驚異的である。

きのうは、短期滞在中の日本人の方とペルー料理のレストランに行って、真鯛のセビチェなどあれやこれやを食べた。セビチェは中南米の名物料理で、魚を野菜とレモン汁でマリネした一品だけど、その店ではヌーヴェル・キュイジーヌ風の仕立てだったからか、マリネの風味がセビチェ本来のそれとは少し違って、幾重にも重なる香りのヴェールの中に息をひそめているかのような可憐さで、まろやかな旨味が見え隠れしていた。虎の乳とよばれるふわふわのマリネ液をスプーンですくって口にはこぶと、芳醇な花がひらき、数秒後には儚くしぼむ。さまざまな味や香りがそんなふうに現れては消え、いつまでも舌にのこらない。見た目もすっきりとして、大きく切り分けられた真鯛も表面だけがレモンで締まり、洗練された官能がそこにはあった。

おいしくいただいている最中、一緒にいた方が、「フランスの調理って塩味が薄くないですか? こういう生の魚を、お醤油で食べたいって思わないのかな?」とおっしゃった。わたしは心まかせに、こう答えた。

「醤油だと、味の輪郭がはっきりしすぎていて、セクシーさに欠けると思うのかもしれません。夢見心地よりも、理性が勝っているというか。おそらくですけど、ヌーヴェル・キュイジーヌって、微妙な線や色をひとつまたひとつと重ねるように味と香りが連鎖してゆく、調香師の魔法みたいなゆらめきをおいしさとして表現しているんだと思います」

言いながら、そうか、わたしはこんなふうに考えているんだ、と知った。もちろんヌーヴェル・キュイジーヌの一般的定義は考慮の外だし、おいしさの概念を一元化する気もさらさらない。きのう食べた皿がちょうどそんな感じだったから、思いついたことをそのまま口にしたまでだ。

まあでも、これは音楽や絵画や文学などにも当てはまりそうに思う。フランスらしいと言われるものってどことなくボトムが軽い。浮き腰で、足元がふらふらしている。これは作品の内部に芸術や崇高さへの見果てぬ夢、すなわち「憧れ成分」が混入しているせいだ。またその憧れゆえの浮遊感は、人間が仰ぎ見たときの芸術のリアルな姿とも重なる。それは雲のように遠く、どこまでもつかみがたい。そういったわけで、浮遊感はけっして不純な混ぜ物じゃないのだ。