だいぶ寝込んでいたからか、最近『なしのたわむれ』の一節を思い出していました。それっていうのは、子供時代の須藤さんが入院中、病室からせっせとラジオ番組にハガキを送っていたという話なんですが、わたしが説明するよりも引用する方が早いかな、ってことで引用します。
この個所。電波という語に「波」の字が入っているからか、ボトルに詰めた手紙が波にたゆたいながら、ひょっこりひょうたん島のように、ちゃぷちゃぷと夜空をーー私の脳内では、須藤さんは深夜ラジオを聴いていたことになっているのですーー漂流している様子が子供向けの人形劇みたいに想像されて、病気のときに想う画としてはちょうどよかった。
わたしはラジオ番組に手紙を書いたことはないですが、でも、なにかを書くとき、もちろんこのブログも、届くかどうかわからない手紙を、波に乗せるように書いていこうと思ったり。
なぜ、ラジオ番組宛てにせっせと手紙を書いていたのか?と自己分析をするならば、そこには世界とつながることへの渇望(というほどのことでもないですが)があったのかもしれません。もともと一人で遊ぶことが好きだったので、学校の友達と会えないことの寂しさとかは感じませんでした。それよりも、日常の義務とスキームを離れて、好きな時間に好きなだけ本を読んだり昼寝をしたりできる解放感が先行していたので、病気であることを除けば、楽しい時間でした。
それでも、です。きっと世界の様子を小窓からそっと眺めたいという望みがあった、もっと具体的にいうならば、同じ時間にどこか知らない場所で同じ放送を聞いているかもしれない誰かの存在をラジオの電波を介して確認したかったのかもしれません。
ラジオ宛てに出した手紙は、番組で読み上げらでもしない限り、届いたかどうかも確認できません。だから、ラジオ宛てに手紙を出すことは、ボトルに詰めた手紙を海へ流すようなもののです。届くかどうかわからない手紙、そしてそもそもの「宛先」がよくわからない手紙はどこへ消えてゆくのか?とその頃、よく考えたものです。いったい誰に宛ててこの手紙を書いているのだろう?と。
この個所。電波という語に「波」の字が入っているからか、ボトルに詰めた手紙が波にたゆたいながら、ひょっこりひょうたん島のように、ちゃぷちゃぷと夜空をーー私の脳内では、須藤さんは深夜ラジオを聴いていたことになっているのですーー漂流している様子が子供向けの人形劇みたいに想像されて、病気のときに想う画としてはちょうどよかった。
わたしはラジオ番組に手紙を書いたことはないですが、でも、なにかを書くとき、もちろんこのブログも、届くかどうかわからない手紙を、波に乗せるように書いていこうと思ったり。