2023-05-15

音色を聴かせて





なんだろう、今朝は空が高かった。夜中に雨が降ったせいだろうか。地球の引力が変ったみたいだ。空気中の塵が洗われ、ぴーんとひっぱったような青い空を、くしゃくしゃに風をたわめながら、カモメの群れが真っ白く笑ってゆく。

浜辺を歩いていたら、誰かがサキソフォンの練習をしていたので耳をかたむける。なんの曲かわからなかったけど、かなりの超絶技巧で吹いていて、朝っぱらからすごいなと思った。

浜辺ではよく楽器の練習してる人を見かける。たいていサキソフォンかトランペットで、たまにギターといった感じ。ヴァイオリンはいちども見たことがない。浜辺の脇の歩道では演奏しているのに。しかも不思議なことに、みんな海じゃなくて人通りのほうを向いている。人に聴かせるより海に聴かせるほうが気分がよさそうに思えるけど、まあ、そこは人それぞれか。わたしは海に向かって演奏している姿に心ときめく。眺めていると、こんな詩が胸の奥からこみあげるからーー幸せは目指す先じゃなくて旅の中にあるんだ。踊れ、誰も見ていないかのように。愛せ、一度も傷ついたことなんてないかのように。歌え、誰も聞いていないかのように。働け、お金なんて要らないかのように。生きろ、今日が最後の日であるかのように。

仕事の帰り、なじみのパン屋に寄った。昼下がりの客が引けた時間帯だった。奥の作業場もしんと静まり返っている。その静けさの中に、主人がひとりたたずみ、ヴァイオリンを構えてクライスラーを弾いていた。大きな作業台の上には、小さく丸められたパン生地が整然と居並び、眠りながら主人の演奏に聞き入っている。たぶんパン生地はどんどんおいしさを増しているんだろう。そのパン屋で買うのはきまっていつもくるみパンだ。袋をもったまま、店の裏手の長い石段をのぼり、公園のベンチで鳥のさえずりを聞きながらくるみパンを食べる。時は五月。ミモザ、スタージャスミン、オリーヴと花々が重なりあい、風に吹かれて椰子が揺れるようすはまるで古代の楽園だった。