2020-12-21
2020-12-17
都々逸の贈答
師走の野暮用がつづく。きのうはお歳暮をさがしに街中へ。ついでに自分用のマロングラッセを購入する。箱をペンケースにできそう。
それはそうと、お歳暮で思い出したのだけれど、誰かと詩歌をやりとりする場合、自分で詠むのもいいけれど、他人の作の引用ですませる粋もあると思う。今日届いたメールで、さらっと雑俳の話をしたさいごに、こんな詠み人知らずの都々逸をしたためてくれた友達がいた。
遠くはなれて逢いたいときは月が鏡になればよい
控えめに言って最高である。李氏朝鮮の使者なのである(@久木田真紀)。しかしながら問題はどのような返歌をつけたらよいかだ。このメールをくれたのは友達だから何を書いてもいいのだけれど、ちょっと距離のある人だと、いろいろとむずかしい。で、こういったとき他人の作を借用するのはいい方法だと思う。わたしが合わせてみたいのは読み人知らずのこちら。
月に誘われデッキに立った沖のクラゲに手をふって
100年ほど前の『北米新聞』で見つけた都々逸。可愛いと思ってメモしておいたのが役に立った。けっこういい感じの組詩になったと思いませんか。これが千年まえの恋愛なら、思いが成就したかもしれない、みたいな。
2020-12-15
上海の赤
しばらく雑用をこなしているあいだに1週間が経っていた。さすが師走だ。
今日はロックダウン解除初日ということで、まっさきに髪を切りに行った。すっきりして気分がいい。帰ってきてメールをひらくと、イベントの感想が新たに数件届いていた。今回はメインの翻訳スライドのほか、漢詩の本の探し方に興味のもった方が多かったようで、これは私としては思いがけないことだった。
『オルガン』23号で素粒社設立にちなんだ記念連句を読む。好きだったのは下の流れ。上海の赤、がいいなあ。
テープ起こしの声のさゝめく 智哉
空気より冷たい鳥の樹を祝ふ 健一
水銀燈がすごい元気だ 抜け芝
上海の赤をほどなく食べるひと 佳世乃
時間旅行で恋人が死ぬ 若之
2020-12-09
2020-12-07
2020-12-06
唐紅のスパイシートーン
オンラインイベント「知られざる香道具の魅力」の講師であるmadokaさんから特製の文香しおり「唐紅」が届く。
袋をあけるとスパイシーな香り。芳烈だけどしっとりしていて目や鼻がちくちくしない。香道初体験なので、これだけですでに新鮮な発見だ。表には業平の和歌(ちはやぶる)に因む絵、裏には源氏物語「紅葉賀」の帖を示す源氏香の図が記されていた。とても嬉しい贈り物で、どの本にはさむか考えた末、エキゾチックなところが合いそうなモーツアルト「魔笛」のしおりにすることに。
あときのうは平井の本棚さんのイベント「第4回 本の作り手と読む読書会」に出演した。ご来場のみなさまありがとうございました。自分のパートは「訳し方の基本」として3作、「詩の冒頭から型を読む」として3作、そして朗読用に3作と全部で9作に言及したのだけれど、時間の関係で使用しなかったスライドがいっぱい残った。ちなみに残ったのは夏目漱石「菜の花の黄」、原采蘋「初夏の幽荘」、徐志摩「天真的預言」、白居易「げんしんのゆめ」でした。
2020-12-04
2020-12-01
「作者」あるいは「作品」とは何か
「読む」ことをめぐるタームの、今日的使用に関する違和感として、「つながる」という言い回しが幸福詐欺の様相を呈するほど安売りされているといった状況がある。曰く「作者と読者とがつながる」、「作品と読者とがつながる」、「作品を通じて〇〇とつながる」、うんぬん。こうした言い回しにはいったいどんな効用があるのだろう?
そもそも「つながる」ことはそんなに手軽なのだろうか。読み手と書き手の共通基盤を「つながる」という発想以外のやり方で築く者はいないのだろうか。これはいちゃもんではない。私自身がものを読んでいて何かとつながったと思うことがないため、純粋に不思議なのだ。
「読む」ときにまずもってわたしが実感すること、それは果てしなさである。追いかけても追いかけても作者に、あるいは作品に手が届かない、といった無常の感覚である。私にとって作者ならびに作品とは、決して抱き合うことのない、いつもこちらに背中を向けている存在のことだ。
なにかの一節が頭をよぎるたび、「ああ。これを書いた人はもういないんだ!」と驚愕する日々。「過去の作者や作品も、さらに昔を生きた作者や作品を追いかけていたんじゃないかしら?」と想像する日々。いまは、それらの背中をわたしが追いかける番らしい。過去へ向かってわたしは駆け出す。するとわたしはまた一歩未来へ近づく。わたしたちがいつか巡り会うだろう場所、その共通基盤は死だ。
ときおり、わたしの追いかけているものが遥か彼方ではなく、肌を撫でるほどそばに感じられる瞬間がある。掲句は、蛍として完結することも聖化することもなく、死んでなお秋風となってさまよう魂が、わたしには「作者」や「作品」の化身のように思われた。もっとも肌を撫でるほど近くにあっても、風は人と「つながる」ことはなく、目の前を一瞬で吹き抜けてしまうのだけれど。
引用は横井也有『鶉衣』より。
そもそも「つながる」ことはそんなに手軽なのだろうか。読み手と書き手の共通基盤を「つながる」という発想以外のやり方で築く者はいないのだろうか。これはいちゃもんではない。私自身がものを読んでいて何かとつながったと思うことがないため、純粋に不思議なのだ。
「読む」ときにまずもってわたしが実感すること、それは果てしなさである。追いかけても追いかけても作者に、あるいは作品に手が届かない、といった無常の感覚である。私にとって作者ならびに作品とは、決して抱き合うことのない、いつもこちらに背中を向けている存在のことだ。
なにかの一節が頭をよぎるたび、「ああ。これを書いた人はもういないんだ!」と驚愕する日々。「過去の作者や作品も、さらに昔を生きた作者や作品を追いかけていたんじゃないかしら?」と想像する日々。いまは、それらの背中をわたしが追いかける番らしい。過去へ向かってわたしは駆け出す。するとわたしはまた一歩未来へ近づく。わたしたちがいつか巡り会うだろう場所、その共通基盤は死だ。
たが魂ぞほたるともならで秋の風 横井也有
ときおり、わたしの追いかけているものが遥か彼方ではなく、肌を撫でるほどそばに感じられる瞬間がある。掲句は、蛍として完結することも聖化することもなく、死んでなお秋風となってさまよう魂が、わたしには「作者」や「作品」の化身のように思われた。もっとも肌を撫でるほど近くにあっても、風は人と「つながる」ことはなく、目の前を一瞬で吹き抜けてしまうのだけれど。
引用は横井也有『鶉衣』より。
(ハイクノミカタ)
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