2018-12-13

「世界」と「自由」



江戸時代の狂歌において、「世界」や「自由」といった語はどんな使い方をされていたのか、てなことを調べてみました。

これを調べようと思ったのは、

三千世界のからすを殺し ぬしと朝寝がしてみたい

がふと頭に浮かんだから。この都々逸って、ほんのり縁起がかっていて、仏教臭さが抜けきっていないじゃないですか(何しろ「三千世界」です)。それで私たちの使う「世界」のニュアンスと江戸時代の人のそれは少し違うのかも、と思ったんです。ところが、あにはからんや、

月みてもさらに悲しくなかりけり世界の人の秋と思へば
頭光
今宵この月は世界の美人にて素顔か雲の化粧だにせず
蓬莱山人帰橋
この里の石の文月浄瑠理の世界にひびく蜩のこゑ
四方赤良

見れば見るほど、あ、一緒だなって。一方「自由」という語も、今と同じ意味で使われているようす。

寄紙祝
君が代のあつき恵みとしら紙の一字もことば書かぬ自由さ
雄蜂

めでたきものを云うのに、帝の恩恵と、まだ何も書いていない紙の醸し出す気ままさとを並べた歌。確かに、白い紙の自由さは格別ですよね。

ほとゝぎす自由自在にきく里は酒屋へ三里豆腐やへ二里
頭光

この歌は、与謝野晶子が本歌取りしたことで知られますよね。

恋痩せし身に嬉しきは小窓より忍びて通う事の自由さ
百文

どれだけ痩せたんだか…。阿呆らしくて笑えます。「自由」のこんなフリーダムな使用例もあるんですね。