日曜だというのに、昨日は朝から出かけた。雪見大福を手に入れに。
この日の雪見大福は白のバニラアイス、黒胡麻アイス、マンゴーシャーベットがそれぞれ2個ずつ。写真は黒胡麻とマンゴー。お餅の部分はもう少し薄くて伸びるとうれしい。願わくば改良されんことを。
雪見大福が一瞬で消える。
机に向かい、この春刊行の本のゲラをこりこり直す。直していると、意味のつじつまで躓く。そのとき、次のようなことを考えた。
人間にとっての時間とは記憶と期待のことだ。それらを欠けば時間は人間にとって抽象的なものにすぎなくなるだろう。
〈過去〉はもどらないし〈未来〉はまだこない。わたしは存在しない〈過去〉の記憶と〈未来〉への期待とでもって〈いまここ〉をサンドウィッチにして味わっている。ところで、この〈いまここ〉とは何かというと、時間をすっぱりと裁ったその断面に違いなく、つまり厚みがない。とすると人は、〈過去〉と〈未来〉というここに存在しないパンでもって〈いまここ〉という厚みのないハムを挟んでいるということになる。だが厚みのないハムに味などあるのだろうか。あるのだろうか。あるのだろうか。ひょっとしてないんじゃないか。思い返せば、瞬間には味がない。過ぎ去ったその残り香に、わたしは貧しくも酔うにすぎないのだ。
2022-01-24
瞬間には味がない
2022-01-19
ミモザと空耳放浪記
果物屋さんの店先に、ミモザが売り出されていた。春だ。
『いつかたこぶねになる日』の3刷が決定しました。この本ってクラファンと連動していたこともあって初刷がかなり多かったんですよ。だから2刷さえ無理なんじゃないかと思っていたのにまさかの在庫切れだそうで。感涙。3刷には記念特典として、漢詩にまつわるエッセイの小冊子がつくらしいですよ…って、いまから私が書くんですけど。やらねば。2月10日出来予定。
現在発売中の『小説すばる』2月号から連載が始まりました。タイトルは阿佐田哲也にあやかって「空耳放浪記」といいます。なにゆえあやかっとるんじゃ、あやかる必要あるんかいなと思われるかもしれませんが、あるんですねこれが。といっても、単に高校生のころからのファンだって、それだけですけど。でもね、わたしは思うんです、この世界は「ただそれだけのこと」で成り立っているときが、いちばん愉しいよねって。
と、ここまで書いたところで家人から連絡が来た。上の果物屋さんの隣の筋で発砲事件があり、人が死んだそうだ。犯人は逃亡中。今日はこれから予後の検査があったのだけれど、外に出られなくなってしまった。
ついに「#小説すばる」で小津夜景さんの連載エッセイ「#空耳放浪記」がはじまったようです。
— 素粒社 (@soryusha_books) January 18, 2022
そんな小津さんの『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』ですが、在庫がなくなったので3刷決定しました!
3刷記念特典を制作する予定ですので、どうぞおたのしみに。 https://t.co/POGoHHj0aW pic.twitter.com/FL2MZ0Z06d
2022-01-10
10キロマラソンがあった日曜日の午後
数日前からリハビリのために歩きはじめ、昨日は数ヶ月ぶりに海に出ました。
これが病院。海の真正面にあります。
海。大きくて、なんにもなくて、いいなあ。
体調いかがですかというメールをいっぱいいただいているのですが、そんなわけで元気でやっています。ブログの更新がまめにできるようになるのはもう少し先だと思いますが、たまにインスタも更新しているので、そちらもご覧いただければ。
2022-01-01
謹賀新年
今年の元日は病院で迎えた。写真は談話室の窓から眺めた海。病室は個室なので居心地がいい。元気もありあまっていて、年末から年始にかけて本を2、3冊読んだ。朝ごはんを食べたあと、うとうとして、初夢もすでに見た。尻尾ふさふさの狐が丸まって高速回転しながら空中を飛んで来て、私の前にある白いお皿に着陸した瞬間、きゅっと小さなおまんじゅうに化けるって夢。あんドーナツくらいのおまんじゅうだった。
2021-12-19
海のみえる休日
数ヶ月前から来ているインド人の知人と夫が食事に行く。知人は明日インドに帰国するそうだ。夫が今日行ったお店の写真を見せてくれる。わたしは変なタイミングで病気になってしまったせいで、結局いちども会えなかった。ざんねん。今度会えるのは来年の秋だ。
2021-12-16
『カモメ』の3刷できました
佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』を手にとる。すごく素敵な装幀。
からーんと晴れた秋の日和に、港に佇んで、船に積まれた列車を眺めている二人。情報が盛りだくさんの句だけれど、そう感じさせないのは相槌「そっすね」が絶妙だから。いやほんと、「そっすね」の一語で句中に人間が二人いることを表現するなんて技が決まった感じだよね。しかもこのさりげない口調、高い空がますます高く感じられるような余白さえ生んでるし。
それはそうと、この句集、食物関係の句があんぐりするほど多い。なんなんだこれは?ってな勢いで、めくってもめくってもおんじき、なのだ。それから川柳の香りがする句が多いのも特徴だと思う。刊行されたばかりなのでたくさんは引用しないけれど、たとえば、
といったあたりは、小池正博『はじめまして現代川柳』に載っていても全然おかしくない。「どこにもいかないね」と「ラーメン」の強い恣意性。おじいさんとわたしが分け合う「蕪」に隠された小さな「無」(この句が本当に川柳だったら、つまり季語の要らないルールだったら〈おじいさんとわたしで食べるちいさな無〉と詠まれたのではないか?)。「そつなくてせつない」と「雪のすこし在る」とのあいだの空白=非言語が狙う効果。「お祈りをしたです」という発話の妙な力加減。また最後の「やわらかいタウンページ」と「鱈の鍋」の組み合わせにひそむ魔法も面白く、「やわらかいタウン」からは「優しい街」が連想され、それが「鱈→雪」と結びついて、愉しい鱈鍋とやわらかく街を包む夜の銀世界とを同時に感じさせる句になっている(あのタウンページがやわらかいってどういうこと? あ、もしかしてあれを敷物にして鱈鍋をやったってこと? そうだわ、この不思議な表現はきっとそこから生まれたのよ、汁なんかこぼれたりして、だからくったくたなのよ、といった現実派?の解釈もいちおう試みつつ)。
お知らせ。『カモメの日の読書』が3刷となりました。地味な本を応援してくださる版元、地道に売ってくださる書店、そして手にとってくださった読者に心から感謝申し上げます。
秋日和そっすね船に積む列車 佐藤智子
からーんと晴れた秋の日和に、港に佇んで、船に積まれた列車を眺めている二人。情報が盛りだくさんの句だけれど、そう感じさせないのは相槌「そっすね」が絶妙だから。いやほんと、「そっすね」の一語で句中に人間が二人いることを表現するなんて技が決まった感じだよね。しかもこのさりげない口調、高い空がますます高く感じられるような余白さえ生んでるし。
それはそうと、この句集、食物関係の句があんぐりするほど多い。なんなんだこれは?ってな勢いで、めくってもめくってもおんじき、なのだ。それから川柳の香りがする句が多いのも特徴だと思う。刊行されたばかりなのでたくさんは引用しないけれど、たとえば、
薫風やどこにもいかないねラーメン
おじいさんとわたしで食べるちいさな蕪
そつなくてせつない 雪のすこし在る
お祈りをしたですホットウイスキー
やわらかいタウンページと鱈の鍋
といったあたりは、小池正博『はじめまして現代川柳』に載っていても全然おかしくない。「どこにもいかないね」と「ラーメン」の強い恣意性。おじいさんとわたしが分け合う「蕪」に隠された小さな「無」(この句が本当に川柳だったら、つまり季語の要らないルールだったら〈おじいさんとわたしで食べるちいさな無〉と詠まれたのではないか?)。「そつなくてせつない」と「雪のすこし在る」とのあいだの空白=非言語が狙う効果。「お祈りをしたです」という発話の妙な力加減。また最後の「やわらかいタウンページ」と「鱈の鍋」の組み合わせにひそむ魔法も面白く、「やわらかいタウン」からは「優しい街」が連想され、それが「鱈→雪」と結びついて、愉しい鱈鍋とやわらかく街を包む夜の銀世界とを同時に感じさせる句になっている(あのタウンページがやわらかいってどういうこと? あ、もしかしてあれを敷物にして鱈鍋をやったってこと? そうだわ、この不思議な表現はきっとそこから生まれたのよ、汁なんかこぼれたりして、だからくったくたなのよ、といった現実派?の解釈もいちおう試みつつ)。
お知らせ。『カモメの日の読書』が3刷となりました。地味な本を応援してくださる版元、地道に売ってくださる書店、そして手にとってくださった読者に心から感謝申し上げます。
【3刷出来】小津夜景氏『カモメの日の読書』大好評につき3刷となりました。ありがとうございます。お求めはお近くの書店か小社HPまで。 pic.twitter.com/YgZD1Avdde
— 東京四季出版 (@tshikipub) December 15, 2021
2021-12-15
修羅の見わたす風景
初めて『蒼海』を読み、作品の粒がそろっていることに驚く。装幀も可愛らしく、とても充実した読書だった。
『蒼海』13号より。春日に触れて、かつての生業を思い出したのか、天の光を操っている老いた映写技師。像なき光という、意味をなさない物象を操る人間の姿。いったいどんな世界を眺めているのだろう。すばらしいドラマ性を感じさせる句だ。
ところで、一般的な「わたしたち」とは違う世界の見え方があることを忘れないのは、詩歌にとってかなり大事なことだと思う。
俳句というのは「見えるもの」に注意が向かいがちな文芸で、標準的な視力や認知力が前提とされた写生が褒められがちで、ああ、見えないよ、見えないよ、こんなにも見えない目にうつる世界を、わたしは見えないままに書いているよって人は、ほんとに、ぞっとするくらい、少ない。
見えないものを書くなどというと、すぐ観念的に捉えるひとがいるけれど、わたしが言いたいのはあくまでも物理的な次元の話。たとえば、人は目に涙をためるだけで、かんたんに何も見えなくなってしまう。甘い涙。つめたい涙。怒りの涙。そういった、涙をためた目に映る世界を写生していけないわけがないのだ。いやむしろ、ひとりの修羅の見わたす風景は、いつだって涙にゆすれている。
映写技師老いて春日を操りぬ 高木小都
『蒼海』13号より。春日に触れて、かつての生業を思い出したのか、天の光を操っている老いた映写技師。像なき光という、意味をなさない物象を操る人間の姿。いったいどんな世界を眺めているのだろう。すばらしいドラマ性を感じさせる句だ。
ところで、一般的な「わたしたち」とは違う世界の見え方があることを忘れないのは、詩歌にとってかなり大事なことだと思う。
俳句というのは「見えるもの」に注意が向かいがちな文芸で、標準的な視力や認知力が前提とされた写生が褒められがちで、ああ、見えないよ、見えないよ、こんなにも見えない目にうつる世界を、わたしは見えないままに書いているよって人は、ほんとに、ぞっとするくらい、少ない。
見えないものを書くなどというと、すぐ観念的に捉えるひとがいるけれど、わたしが言いたいのはあくまでも物理的な次元の話。たとえば、人は目に涙をためるだけで、かんたんに何も見えなくなってしまう。甘い涙。つめたい涙。怒りの涙。そういった、涙をためた目に映る世界を写生していけないわけがないのだ。いやむしろ、ひとりの修羅の見わたす風景は、いつだって涙にゆすれている。
2021-12-14
私の好きな中公文庫
中央公論の連載コラム「私の好きな中公文庫」に寄稿しています。これ、書き出す前に、現在刊行されているリストというのを頂いたんですけど、記憶に残る本という本がことごとく絶版でびっくりしました。リストに目を通しながら、なんというか、知ってる町内だと思って歩きはじめたら、つぎつぎ知らない曲がり角があらわれて、いるはずの人たちも全員死んでいて、自分がどこにいるのかわからなくなって、途方に暮れ。
「大人の香りを楽しむ文庫(ふみくら)」
— 中公文庫(中央公論新社) (@chuko_bunko) December 14, 2021
俳人の小津夜景さんに、〈私の好きな中公文庫〉へご寄稿いただきました。https://t.co/CQ6RJgyZAu
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