三島ゆかりさんから「連句誌『みしみし』で夜景さんに言及したので一冊お送りしますね」との連絡をいただく。雑誌が届き、ひらいてみると、三島さんのお書きになった「生駒大祐『水界園丁』を読む」の中に「小津夜景がいうところの倒装法」との一文を発見。
私が倒装法という語を使ったのは
こちらの小文なのですが、ううむ、わたし、ちゃんとネットで入手できる参考文献を紹介したし、倒装法にかんして自分の手柄みたいな顔はこれっぽっちもしてないよね、と不安になりました(気が小さい)。
私の知るかぎり「錯綜顚倒」「倒装法」などの用語はどの芭蕉全集の校注にも出てきます。芭蕉の倒装表現が主要テーマの研究書もありますが、そもそもこれ蕉門十哲の各務支考『東華集』にある話でして、「余興」と称して芭蕉の「錯綜顚倒之法」をめぐるコラム(上の画像)が載っているんです。あとは石河積翠の芭蕉本にも出てくるらしいし、六平斎亦夢『俳諧一串抄』にも〈鐘消えて花の香は撞く夕哉〉について「これ鐘は撞べきもの、香ははかなく消るに名あるを、相反したる体裁なり」との評がある。つまり江戸時代から知られた話題なのです。芭蕉のファンでなくても、漢詩や言葉遊びが好きな人なら、倒装法の話はいろいろ目にしたことがあるのではないでしょうか。
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せっかくなので倒装法を使った芭蕉の秋の句を。私はこれ、漢詩の読み下し風を演出した、とてもしたたかな自由律と思っていて。なかなか、ヴァガボンドな、渋い味を醸しているんですよ。はい。
憶老杜
髭風ヲ吹て暮秋嘆ズルハ誰ガ子ゾ 芭蕉
《「憶老杜」は杜甫を思いしのぶ意。普通には「風髭を吹いて」というべきところを、漢詩の倒装法に倣って言葉を逆置した修辞である。杜甫の詩句「藜(あかざ)を杖ついて世を嘆ずる者は誰が子ぞ」を踏まえ、疎髯を風に吹かせて蕭索たる暮秋の曠野に立ち歎く杜甫の俤を描いた、典型的な天和調の句である。この句は全体として「白帝城最高楼」の詩句を摸し、倒装法まで用いて漢詩的な気分を盛り上げようと努めているが、それは単なる技巧的な興味にとどまらず、作者自身の内的衝迫の強さのあらわれとして表現面に滲み出たものである。「誰ガ子ゾ」は、「外ならぬ杜甫だ」と言っていると同時に、その杜甫の姿に託して芭蕉の悲傷の情を寓しているのだ。それが突兀とした倒装法や八・八・四という破調となって現われているわけで、そう感じさせるだけの力をこの句は持っている。》(阿部正美『芭蕉発句全講I』明治書院、所々中略アリ)