2020-08-12

古典は誤解より始まる





『図書』8月号掲載の須藤岳史「古楽はいつだって新しい」を読み、表記の問題のあれこれを想う。ここのくだり。

歴史的な版を含めて現代では多くの版が出版されているが、原典版と呼ばれるもの以外には、歴史の中で変遷してきた趣味や版を編集した人の解釈(スラー等の演奏記号や表情記号)が入っている。クラシック音楽を学ぶ際、最初に習うことの一つは「楽譜に忠実であること」だが、忠実さを捧げる楽譜自体が、作曲家の意図を超えた解釈/翻訳版である可能性があることは忘れないようにした方が良い。

これは「古典あるある」ですよね。たとえば万葉集も、真名を仮名にするときに訓釈作業が行われていて、原典版を読んでいる人とそうでない人(私のこと)とでは、見えている景色が全く違う。

若草の新手枕を枕き初めて夜をや隔てむ憎くあらなくに
若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在国

原文では「憎くあらなくに」の「くく」が「八十一」と掛け算で表現され、また「あらなくに」の表記「不在国」も凝っている。こういう仕掛けを見ると、万葉集は「原文+漢字交じりの総ルビ」で読んだ方が面白いだろうなと思います。

たらちねの母が養ふ蚕(こ)の 繭隠りいぶせくもあるか妹に逢はずして
垂乳根之 母我養蚕乃 眉隠 馬聲蜂音石花蜘蟵荒鹿 異母二不相而

原文は「蚕」に加え、「いぶせくもあるか」に「い=馬の声」「ぶ=蜂の音」「せ=石花(カメノテの古名)」「くも=蜘蛛」「あるか=荒ぶる鹿」と、計六種類の動物が詠みこまれた動物づくし。さらに「い」と「ぶ」はなぞなぞ仕立てになっています。

もともとは複雑で愉しい歌だったものが、現代の表記だとその情報がすっぽり抜けて、こんなにも素朴で一途な雰囲気にさま変わりしてしまう。恐ろしいことです。

そんなわけで、いっそのこと「古典は誤解より始まる」というスローガンを合言葉とした上で出発した方が、いろいろな先入観を相対化できるのだろうと改めて思った八月の朝なのでした。