2020-08-07

海上のおしゃべり






今朝も魚と泳ぐ。海のまんなかに写っているふたつの人影(クリック推奨)は70歳前後の女性。毎朝、海の真ん中でずっと立ち泳ぎしながらおしゃべりしている。わたしが海中にいる間はまったく動かないので、少なくとも15分は立ち泳ぎでおしゃべりを続けているのだ。かっこよすぎる。

* * *

ブログ「俳句的日常」で「世の中〈12音+季語〉ばかりじゃないよ、という話」の実証例として、小津の句が挙がっていました。

たしかにわたしは一句を季題から発想します。というのもわたし、〈12音+季語〉という手法に対して経済的な匂いを感じてしまうんですよ。12音を作ってから季語を足すといったやり方は、12音の内容をより洗練(凝縮・異化を含む)させて〈オチとしての季語〉に還元する作業になりやすく、全体で一つの実存となる句を制作しにくくなるんじゃないかな、というか。

ただ、手法の批判って実は無意味なんです。だって必ず豊かな例外があるんですから。

つまり俳句の価値は、それぞれの句の具体的な仕事と関わっている。手法ではなく作業の中に、感動の種子は眠っている。

わたし自身、〈12音+季語〉に限らず、自分好みではないやり方で書かれた好き句はいっぱいあるし、また自分好みのやり方で作句している時も、そこに安住している間ではなく、そこからふっとはみ出た瞬間に感動が起こるのでした。