2021-03-31

古典を読むときの感覚





走り書きメモ。

日本に滞在してつらいことのひとつに「自分と日本とのあいだの時差が消える」というのがあります。ふと「いまわたしのいる場所は12時だけれど日本は何時かしら?」と思ったときに、日本も12時だというのが、ものすごくしんどいんですね。自分という時空と、日本という時空とのあいだにずれがない、ぴったり重なっているというのに適応できなくて。

ここから話を広げて、もしもですね、人類がどこかの星に移住するような時代が来るとして、どこかの星に引っ越した人と地球にいる人とのあいだには、浦島太郎的な時間のずれが生じるわけですよね。どこかの星ではゆっくり時がながれて、はっと気づいたら地球の友だちはみんな死んじゃっていて、自分だけがまだ若い、みたいな。その時間の遅さは地球に帰らない限り自覚する機会がないかというとそんなことはなくて、地球の友だちから届いたメールの文面とか、さまざまなシチュエーションから気づきうる。

でね、こういう感覚って、わたしにとってすごくなじみがあるんです。

どうしてなじみがあるなんていえるのかしら?とかんがえてみるに、あ、そっか、古典を読むときの感覚ってこういう感じなんだって思いました。わたしの場合、自分の傍に古典のある生活というのは、時間的な距離のある2点を同時平行で生きることに等しいんだって。以前「漢詩のどこが、ふしぎなのか」を書いた時も、二つの要素の同時感覚という特徴についてふれたと思うのですが、もしかするとこの話には自分にとって大事なことが隠されているのかもしれないと思って、メモすることにしました。