2023-12-13

カメラがくれた勇気、そして永遠





朝からロベール・ドアノー展を観る。

写真をまじまじと眺めて、まあ予想はしていたけれど、こんなにいいのかと思いました。対象をピンポイントで捉えていて、どれも写しすぎていないの。だからけっしてオーバーにならない。真っ向から撮るときでも勝負っぽさを出さない。慎みがある。しかも画面のざわめきがめちゃくちゃリアル。

4歳で父親が戦場で亡くなり、7歳で母親とも死に別れ、ずっと不遇だったけれど、16歳でカメラを始めて、それが心の支えになって、片時も手放さなかった、まるで消防士の兜みたいにカメラを手にすると勇気が湧いた、カメラがあったから過去の辛かったことを乗り越えて、人々の愉しみを切り取る写真家になれた、そんな話をあらためて確認しつつ展示室をまわり、そのあとは別の部屋に移って、映画『パリが愛した写真家ロベール・ドアノー 永遠の3秒』を観た。

昼には家に戻り、クスクスを40g炊いて、モッツァレラと赤ピーマンとトマトを入れたコロッケとメスクランで食べた。主食は毎食ごとにいちいち量って作る派だ。

ところで最近ずっと考えているのは、誰かが死んだときに「泣く」という行為について。まあ、わたしも、そういうことがあれば泣く。でもそれは、ただただ心が傷ついたことにたいする生理的反応として泣くってことで、本当に心から絶望して泣くわけじゃない。だって人は、死んだって実は死んでない。生きつづけている。つまり生や死というのは現象でしかなく、そこにどういった本質を見てとるかはその人次第なのだ。でね、わたしは、詩を書く者が永遠を信じないで一体どうするのかって思う。永遠を支持することは詩人の採りうる政治的信念、そのひとつの形だろうって。なにものもここに残らない。それは知っている。知っているけれど、その事実に従わない。なにものも失われないと信じること。死に屈しないと決めること。永遠を心に抱えたまま、最期の日まで有限の存在でありつづけること。