寒いので、冬のお茶を飲む。入っているのは葡萄、檸檬、ハイビスカス、カシス、肉桂、甘草、カルダモン。大きいカップにそそぎ、鼻を差し入れながら飲むと、余計においしい。
お茶菓子はビスキュイ・ローズ・ド・ランス。創業260年のフォシエ社が製造している伝統菓子で一個30円くらい。口当たりはわたあめ、歯ざわりはさくさく、そして味は瓦せんべい。ふつうはシャンパーニュにひたして食べる。
今日更新のハイクノミカタにも、一句とともに子供のころのお菓子の思い出を書いています。すごく素敵な句です。
2021-01-17
冬のお茶とお菓子
2021-01-16
世界に転がっているもの
本と自分との関係について言うと、年2、3冊買えばいいほうなので、どちらかというと縁がない派に属すると思う。
何か書くときも、たまたま出会った言葉や声の記憶を頼りにブリコラージュ方式で巣作りするため、いきおい雑然とした文章ができあがる。
むかし、ある若いギタリストの、青年期特有の抽象美をはしょらず潜り抜けたはてに豊穣へと達した見事な演奏に心を打たれたことがある。そのギタリストは音楽をはじめてまだ数年にすぎず、類まれな才能に恵まれていたせよ、どうしたって耳の経験値は足りないはずだった。
それなのになぜこんなに成熟した演奏が可能なのだろう?
わたしは思った。きっとこのギタリストは、幼いころから世界の物音をずっと聞き続けてきたのだと。人々の怒声や悲鳴。けたたましいパトカーの音。ガサ入れのあとの静けさ。儚い匂いさながら家の窓から漏れる話し声。刹那の弾で永劫の的を撃ち抜いてしまったかのような郊外の昼の空虚。そのギタリストの身体にはそうした暮らしの音が沈殿し、一種の熟成を遂げ、この世界にとって音とは何かを掴んだ。それゆえ音楽をふんだんに聴く機会に恵まれずとも、手持ちの音の記憶の駒から、ひとつの理にかなった音楽を紡ぎえたのだ。
むろんこれはそのギタリストに限った話ではない。世界に転がっているものを拾いつづけ、幸運にも熟成させることに成功した者たちの作品は、近づいて見ると彩り豊かで、心に沁み、愛おしく、また離れて見ると思わずあっと叫んで硬直してしまうようなずたずたの疵跡を有している。
2021-01-14
匂いのふしぎ
あいもかわらず海をながめている。流れ星みたいに、飛行機雲が尾を曳いてゆく。
家に帰って手を洗い、スマホやサングラスなどの携帯品を次亜塩素酸ナトリウム液で消毒する。かれこれ一年ちかく、外から帰るたび毎回そうしている。ふわりと軽く漂う塩素の匂いは大好き。毎回毎回、自分でも頭がおかしいと思うくらい本当に毎回、子供のころプールのきもちが蘇って「ああ、なんていい匂いなの!」と口に出さずにいられない。
匂いの記憶がもたらす喜びというのは、 視覚や聴覚とちがって毎日でも全く色褪せないけれど、これって誰しもそうなのだろうか?
好きな匂いといえば、日焼け止めクリームの匂いも好き。顔に塗るたび胸がきゅんとする。海で泳ぐときのきもちが蘇って。そしてコーヒー豆の香りも、幼いころからずっと嗅いでいるのに、蓋を開けるたびに天上の幸福がひろがるかのような、この上ないきもちになる。
2021-01-11
古屋翠渓の短歌
今週のハイクノミカタはわたしの好きな俳人・古屋翠渓の俳句について書いています。古屋翠渓は短歌も書くんですが、俳句が冒険心に富むタブロ一だとするならば、短歌は日々のスケッチの味わいです。残念ながら歌集は出ていないので、以下、日布時事から好きな歌を気ままに引用します。
金雨花の咲けるもよしや吾子連れて芝生を歩む日曜の午後(1926年8月15日号)
家解きし跡に陽炎漲りてピンクシャワーの咲きいでにけり(1928年4月29日号)
久しぶりで日和になつた朝の庭マンゴたわわにゆらす風あり(1933年3月19日号)
秋らしき雨のあしたの朝まだき柘榴色づきたりし裏庭 (1933年11月11日号)
2021-01-09
2021-01-04
切り紙のつなぎ模様
『トイ』Vol.03が届いたのでめくってみると、俳誌名そのまんまの句がありました。
古書市に古き禁書の古りゆき雪 干場達矢
視覚的にも聴覚的にも、切り紙のつなぎ模様を彷彿させる句。この特徴が功を奏し、「古」の語がセンチメンタルな懐旧を寄せつけることなく祝祭的愉悦を放っています。古書に照準を合わせつつ、それを取り囲む群衆の賑わいをソフトフォーカスで描いたところもいいですね。
壜吹きてさびしき音を冬三日月 干場達矢
日常にひそむ心象風景の発見。うん、船の汽笛みたいなあの音はたしかにさびしい。それでいてこの句は「壜」「吹く」「音」「冬三日月」といった語の並びにトイ・ミュージック的軽みがあるので、さびしさが湿っぽくならない。壜と冬三日月との響き合いもタルホ的小宇宙を感じさせます。
2021-01-02
2021-01-01
謹賀新年
手紙を読みながら 高橋睦郎
ワスレナグサの咲きみだれる庭に
椅子を持ち出して 手紙を読む
読みながら うとうととまどろむ
その手紙を書いたのは いつのたれか
書いた時と書いた人とは忘れられて
(書いた日が昨日で 書いた人があなた
でなければならない理由があろうか)
読む時と読む人も忘れられて
(読む時が今で 読む人がわたし
でなければ なぜならないのだろう)
ただ 光の中に手紙がひろげてある
庭はうとうととまどろんでいる
手紙がまどろんで そして忘れられる
詩集「フィレンツェの春」より
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