2021-07-11

犬の散歩





海水浴の季節になると、海岸での犬の散歩エリアが限定されます。近所のエリアは長さ320メートルで、無料の犬用シャワーとエチケット袋のディスペンサーが設置されています。

昨日21時に海に出たらまだ泳いでいる犬がいました。
この犬はステファン・ボロンガロという人の作品らしい。
緑のエリアが犬用。

2021-07-10

けふもまた茶房に砂の庭づくり



『ぶるうまりん』42号の特集「ぶるうまりんの旅立ち—同人の自選20句を読む」に寄稿しています。

結社誌や同人誌は多種多様な動機をもつ人々の集まりで、句評の役割も複雑かつ繊細なのではないかと想像します。それがわたしにはわからないため頼まれても辞退しがちなのですが、今回は依頼の背景をくわしくご説明いただき、それならばと書くに至った次第です。

話は変わって、さいきん近所に引っ越ししようと思い物件を見て回っていまして、この辺のアパートは家具一式付きが少なくないのですが、きのう見に行った空き部屋がかわいかったです(我が家の条件には合わないけれど)。

2021-07-07

フィナーレは空ととけあう海だつた





ブログに海のことばかり書いていたら、知人から「そんな毎日泳ぐってすごくないですか?」というメールが来た。むべなるかなと思う。かくいう私も自分がこうなるまでは近所の人たちを見て、どうしてそんな余裕があるのだろうって思ってたクチだ。それがいまでは「仕事帰りに銭湯に寄る感覚だったんだね」と悟った。我が家は午後6時から約30分間泳ぐ。この時間に泳ぐと夜の暑さがこたえないし、肩や背中もほぐれて体調にいい。ここ一週間は波が静かで、水が透き通り、魚の群れが見える。魚たちはわたしのことを生き物だってわかってるみたい。

冬泉さんの捌きで進めてきたD連句は四ヶ月かけて四巡し、とうとう四季がつながった。とても嬉しい。D連句というのは須藤岳史さんの「並行世界連句」なる着想を、冬泉さんがシューティングゲーム「DARIUS」の面分岐にアイデアを借り、そこにダイヤ型の巻き姿を重ねて命名した、挙句が五七五の長句になる無限ループ歌仙のこと。挙句を次の巻の発句にしてつなげてゆく。

白猿の巻

発句〈白猿(ハヌマン)の半跏思惟せる木陰かな/夜景〉を左右からしっかりと支えるように〈島に便りを遣る夏霞/冬泉〉と〈やよ雲海のなぎさ発つ鳥/羊我堂〉と脇がつく。雄大な展開を予感させる素敵なオープニングだ。両脇に海の香りがするところも心が浮き立つ。D連句では長句と短句とが交互に横一列にならぶので、通時的なだけでなく共時的な楽しみも味わえる。

あらましの巻

発句〈あらましは韓江(한강)に吹く白き風/綉綉〉 と脇〈秋のさすらふ若き原人/季何〉〈忘れ扇にきざす漣/冬泉〉のバランスがくらくらするほどかっこいい。16から21の短句がずらりと平淡な味に整ったのも面白かった。
16起こりえぬとは起こりうること/綉綉
17湖底に見ゆる星の交響/拾晶
18はかりがたきは夜の短さ/羊我堂
19山椒魚ら南をめざす/冬泉
20遊べ遊べと囁きながら/岳史
21形代の紙かすかに黄ばみ/胃齋
画像を見るとわかるように、17から20は前句が2句あるので難易度が上がる。当然打越も多くなり、それらを逐一チェックする捌きは大変だ。

少年の巻

これは自分の付句の調子が良かった回。全体で一番好きな付句は22〈南風渡るメイプルソープのTシャツに/胃齋〉。前句は16〈SF(サマーキャンプのフレンドシップ)/羊我堂〉と17〈狂つた泉の小さな世界/岳史〉で、ついつい衒学的遊戯を深めたくなる流れなのだけれど、その予想を裏切り、風通しのよい方向へ舵を切っている。

藍ねずの巻

挙句〈白猿(ハヌマン)の半跏思惟せる木陰かな/夜景〉の前句34〈やがて虹立つ現現現世/志保〉と35〈汗拭きながら仏跳牆(フォーティャオチァン)を/胃齋〉の趣が好き。D連句の円環を閉じるにあたって現現現世にかりそめの虹を架けた志保さんと、かりそめの世など忘れた体で楽しい時をすごしている胃齋さん。どちらにも連句ならではの美しさがある。

2021-07-03

過ぎゆく刻の潮騒





小説や楽曲の面白さというのはストーリーやメロディーといった単体の要素で説明できるものではなく、むしろ素材の厚みとか重なり方とか、論理のこんがらがり方とか、声や息つぎの癖とか、さまざまな質感および量感の即興的現前に立ち会うところにあると思う。小説ならばそれを読んでいる時間の中で、音楽ならばそれを聴いている時間の中で、作品が今まさに生まれてくる状況を体験することがひとつの醍醐味なのだ。

遊佐未森『潮騒』を聴く。遊佐未森さんは初期からずっと物語性を素地とした作品をつくっていて、今回もその感性は健在だったのだけれど、それ以上に私がありありと感じたのが「わたしはいま音楽を聴いているのではなく、刻一刻と過ぎ去ってゆく〈時〉を聴いている」といった新鮮な驚きだ。まるでこちこちと時を刻みつづける時計が豊かな翳りを湛えつつ、作品の中心で静かに鳴っているかのような世界。『潮騒』は物語的ないし音楽的な愉しさはもとより、過ぎゆく時間そのものを表現した作品集だった。

過ぎゆく時間を現前させるしかけは、楽器の音づくりにもまして遊佐未森さんの声と歌唱法に隠されている。よく太極拳では套路をするときに「繭の中から一本の糸を、切れないように細心の注意を払いながら、どこまでもすぅーーーっと引っ張り出してゆくイメージで息をし、また指先の意識を整えなさい」と言われるのだけれど、さながら『潮騒』ではそんな歌唱法がきわまって、声の持続のなかに時間のうつろいが生じていた。うつろいといっても無常観のごとき「意味的」なそれでは勿論なく、時間の真綿をすっと一本の絹糸に変えるみたいに純粋な時間そのものを生成している、ということ。特に前半、静かな緊張をはらんだ声と時間との対話が感じられる。

作品にただよう仄暗さも良かった(きれいな声のせいで一見そうと気づかせないところも面白い)。外間隆史さんと遊佐未森さんって、やはり相性がいいと思う。

2021-06-27

さよならは仮のことばと、きのうきょうの暮らし





前回のブログが消えてしまったので同じことをもう一度書きます。新潮文庫『さよならは仮のことば 谷川俊太郎詩集』の解説を書きました。105篇が収録された新潮文庫オリジナル詩選集です。
* * *

6月21日のブログに剣の術理で波をのりこなすうんぬんと書いたがあれはわたしの完全なる妄想だったようで、その翌日の海で溺れてしまった。いや妄想だってことは知ってたけれどまさか溺れるとは。で、ほとほと懲りてきのうは初心の初心に返り、海に浮き輪を持って行った。いやあ浮き輪っていいですね。歩行器に乗った赤ん坊みたいに自分の実力をはるかにこえた曲芸ができる。きのうはラッコが水の上でくるくる回転するみたいにくるくると遊び倒した。そして日曜日の朝、つまり今朝は『短歌研究』6月号を読む。正岡豊さんによる穂村弘『シンジケート』評が80年代の橋本治を降臨させた文体で、読み終わるやいなや滂沱として涙を流しながら(ウソ)橋本治訳『枕草子』を引っぱり出してくる。ほんとは『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を読みたかったけど手元にないのだ。そのあとつづけて渡辺祐真さんの俵万智全歌集批評に目を通す。引用歌のバランスなど、俵万智入門として見晴らしがいい。解説を追いながら、俵万智の言葉遣いの平明さにあらためて感じ入る。

2021-06-21

剣の術理で乗りこなす波



「ほぼ日通信WEEKLY」の巻頭エッセイを書きました。下のツイートを見ると22日火曜日(明日ですね)午前中までに登録した方のみ読めるみたいです。わたしもさっき覗いてみたんですが、試し読みのコーナーに柳家喬太郎氏のインタビューが載っていて、ちょっと得した気分。


日曜日は朝から立ち泳ぎで波乗りをして、帰宅してから前田英樹『剣の法』を読む。もしかしたら新陰流の術理が、波乗りの参考になるのでは?と思って。波にそなわる縦回転の円運動との引き合いとか、波に身体を斬らせるときの上手い角度とか、また反対に波頭に斬られないようにして懐に潜り込んでゆく動作とか。チューブライディングみたいな世界とくらべたら、わたしの遊びは赤ん坊の次元だけど、それでも考えることがいっぱいあってたのしい。今日は夏至なので午後の遅い時間に泳ぎに行こう。

2021-06-19

手をオカリナのやうに過ごした





今年はじめて海で泳ぐ。これから2ヶ月間、毎日泳げると思うと幸せすぎる。海に入ると、かんたんに瞑想状態になれるのもうれしい。陸の上ではこんなふうにはいかないから、水の力ってすごいなって思う。

さいきんはずっと考え事をしていた。こんなに考えたの何年ぶりだろうってくらい。何を考えてたのかというと「いい文章ってどういうふうにできてるんだろう?」ってこと。こんなことを考えるなんて頭が変になっていたのかも。人の話もきいてみようと思い、保坂和志「小説的思考塾vol.4」も視聴した(すごくよかった)。

そういえば、喋っている保坂和志さんを見るのってその日が初めてだったんですが、声や喋り方に違和感がなさすぎて、見終わるまでそのことに気づかなかったんですよ。絵描きはそんなことないのに、物書きが話しているところを目撃すると、ときどき「え?」ってなりますよね? なりません? 想像してた声との違いにたじろぐというか。彼らは「語る」のが仕事だし、文体というのはフィジカルなものだから、読み手はなにかしらの声をあらかじめ強く思い描いている。村上春樹の声と喋りを初めて聞いたときなんか、もうわたし、びっくりどころじゃなかったな。

D連句は雑の短句。いつもどおりわしゃわしゃっと書いて、ちょうどいいのをメールで送る。

うそもほんとも鳥だつたころ
雲雀を燃やす木々のたてがみ
寝息のにじむ古き絵葉書
色を失くせし虹の嫁入り
タイムマシンの静かなる夜
手をオカリナのやうに過ごした

2021-06-08

消えざる朝のやうな幕引き




新潮7月号にエッセイ「漢詩を読む、水のほとりで。」を書きました。あと週刊俳句第737号に【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】が掲載されています。

週刊俳句の記事に「三大ギフト・ショップ・ミュージシャン」という言葉が出てきますが、クラシック音楽にはまた別の定番があって、わたしの知る限り(わたしの行く場所が偏っている可能性は大いにあり)ミュージアム・ショップで最も見かけるCDはフォーレです。ドビュッシーでもラヴェルでもなく。

D連句は雑の短句が回ってくる。今回は軽く付けすぎたかも。

消えざる朝のやうな幕引き
このあたりでは見ぬ影法師
風生む日々のカタストロフィー
負けた地球がやけに明るい
風のしじまに骨をうづめる