禅の研究者でもあったブライスによる川柳翻訳を追った論文に平辰彦「川柳詩への道」がありまして、それを読むとブライスという人は目利きだなあと愉しくなります。
有ってさへ況や後家に於いてをや
この句をブライスは「シェークスピア的ユーモア」と表現しています。また同じく色関係の句で〈とは知らずさぞ留守中はお世話様〉の間接性もお好きな様子。もっとも今したいのはそんな話ではなくて、この論文の下の箇所のこと。
考えた様に雨垂れ一つ落ち
川柳では、擬人法を用いて無生物に人間の「いのち」を与える。ブライスは、この川柳に19世紀のアメリカの詩人エミリー・ディキンソン(1830-1886)の詩と同じ詩性があると指摘する。この「古川柳」は、鎌倉時代の京都・大徳寺の禅僧の大燈国師(1282-1338)が作った次の和歌が踏まえられている。
耳に見て目に聞くならば疑はじおのずからなる軒の玉水
大燈国師は禅でいう「正見」をこの和歌で表現しているが、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」(Ⅳ.i)でも、妖精の世界からボトムが人間の世界に戻った時に言う「人間の眼は聞いたことがなく、人間の耳は見たことがない」の科白には、禅でいうこの「正見」が認められる。またこの「古川柳」では「雨垂れ」が題材にされているが、現代川柳にも、次のような「雨垂れ」を題材とした作品がある。
最後の雨だれ夜るの空がへこんだ 14世根岸川柳
この14世の句は前から知っていたのですけれど、でもこういった流れで引用されると、わあ、と心の目が開かれる気分です。