2018-02-27

ホイ! あるいは『バスハウス』における表象の臨界。





マイナの写真を眺めていたら、あまりにかわいすぎて、他にもかわいい鳥の写真を貼りたくなりました。で、三光鳥を。

失恋に三光鳥がホイと言ふ  小林貴子

作者自身による、この句にまつわる笑える話がここで読めます。

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昨日の石井辰彦『バスハウス』について。ラフ・アイデアとはいえ、あの書き方では舌足らずだと気がついたので、少し付記。

エロスを扱う作家に比べ、タナトスを扱う作家というのはそういません。これは性ないし死の臨界に広がるタナトスが、想像界(イメージ)や象徴界(言語)に囲い込まれないところにある、いわば現実界(ありのままの領域)であるがゆえに当然のことで、平たく言うと、タナトスというのは語り損なうという形でしか語れない。

石井辰彦『バスハウス』はエロスに加えてこのタナトスをも描こうとした作品ですが、ラストの数ページに結実したそのありさまは必見です。

そこでの主人公は、みずからを供物として火に捧げることを促すかのようなsvāhā(स्वाहा)という響きを耳にします。この語は本来、バラモン教の儀式において天上のすべての神々に捧げられた供物の事らしいのですが、この本では〈背徳者〉である主人公を糧とした火が、そのまばゆい輝きで世界を浄化する光景まで描かれているんですよね。

虚空に消えゆく星のごとく散りばめられた、美しきsvāhāの木霊。おそらく石井があのシーンで描こうとしたのは、イメージと言葉とを放擲した、性&死の臨界点とその賛美だったのでしょう。

短歌による短歌のための表象構築にとりくむ石井が、にもかかわらずこの本のラストを決して短歌とはなり得なかった語で飾ったことを、わたしは冷静な判断だったと思いますし、またラストの見開き頁には、究極のドラマタイズとその不可能性との両極が奇跡のように現前しているとも思います。

「わが、灰は、海に、撒け」とて死にし友を、燒きぬ 花咲き滿てる岬に  石井辰彦