2020-07-29

読書の風景、あるいは人はなぜ本を読むのか。





『トイ』Vol.02より。

ふたり入りもう出てこなさう薔薇の園  干場達矢

花園の内側に感じられる異界の兆しを、〈さう〉といったソフトな同定で捉えたところがこの句の要所。ここは〈さう〉くらい柔らかく受けて、空間の構造が固くなるのを防がないといけない、というわけです(たぶん)。たしかに構造が固いと奥行きも浅くなるから、せっかく園の内側に入っても、非実在感や秘境性が香ってこなくなりますよね。

悪文にリズム先刻より囀  干場達矢

これはオーラのある句。まず〈リズム〉と〈囀〉といった音楽つながりの対句と双方の語呂の近さがいい。次に〈先刻〉という語の選択がいい。切り返しに置いたときの引きが強いです。それから〈より〉と〈囀〉との音節上の相性がいい。下五の字余りに納得の強勢を生み出しています。

ところで、この句にはもうひとつ面白いことがあって、それは何かというと、

数ページの哲学あした来るソファー  西原天気

との類似性です。西原さんの句も、出だしの〈数ページの〉が奏でる装飾音的な多幸感や、〈哲学〉と〈ソファー〉の取り合わせの巧さや、未来へとひろがる〈あした来る〉の盛り上がりを〈ソファー〉という意想外のオブジェクトで受け止めたところなどが見事ですが、これらふたつを並べてあっと気づいたのは、どちらの句も前半が「難書との取っ組み合い」で、後半が「外部からもたらされる快楽」になっていることです。

これ、偶然の一致ではなく、読書の一景としての普遍性がありそうに思われます。

言葉にかじりつき、その内へ内へ潜ろうとする意識と、本なんて捨ててこっちへおいでよ、外はこんなにも愉しいのだから、と誘う世界。人はそのあいだで引き裂かれることもあれば、うまく一冊を読み終え、脱皮しおおせることもあります。

一冊の本を読み終わり、外に出て海を見たときのあの輝き、一度死んで生まれ変わったようなあの悦ばしい感覚を思い出しながら、そんなことを考えました。