2018-11-17

みみず・ぶっくす、あるいは玩具展示室。





長い間、読書とは無縁でした。

今でも「読むためだけの本」は買いません。我が家は一部屋で、本棚も一竿だからです。

その一竿の空間には、海辺で石をひろってくる感覚で、眺めて楽しい本を並べています。好きな人から貰ったもの、紙のやぶれや糸のほつれを補強したもの、子どもがラクガキしたもの、図書館の蔵書印が押してあるものなど事訳はいろいろです。

ところで今年、我が家の蔵書が一竿を超えたのですが、整理する暇がなくてしばらく物置に入れてあったんです。で、この秋休みにそれらを見返していた折、突然《みみず・ぶっくす》に卸すことを思いつき、今日は本屋のヘッダーをつくりました。

オープンは来月あたまが目標。週2,3冊くらいずつ新しい本をアップして、手持ちの在庫がなくなったらおしまい。あとは道端に腰を下ろし、わたしの代わりにそれらを可愛がってくれる物好きな人が通りかかるのを待ちます。


2018-11-14

詩篇の起源






先日、心というものが炎や虹と同じ〈現象〉であると書いたところ、友だちから

うん、立ちあがるものだ
こころは
あれだ
le vent se lève, il faut tenter de vivre
の 立ちあがる感じかな

というメールが届いて、あ、確かに「風立ちぬ。いざ生きめやも」の「風」と「心」も同期していたなと思いました。

この句はポール・ヴァレリー「海辺の墓地」の最終連(第24節)に登場します。地中海を見下ろす丘陵の墓地に坐し、まばゆい海を眺めながら、万物の静止する午後のひとときを「死」の瞑想に費やしていたヴァレリーが、やがて日が暮れかけ、風が立ったその瞬間、はっと「死」を脱して「生」に立ち返るといったシーンです。

Le vent se lève! . . . il faut tenter de vivre !
L’air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues! Rompez d’eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !

風が立つ!. . . 生きなければ!
とめどない気流が私の本を開いてはまた閉じ
波はしぶきとなって猛然と岩にほとばしる!
舞え、まばゆい頁よ!
砕け、波よ! 砕け、心躍る水で
三角の帆がついばむその静かな屋根を!
(ヴァレリー「海辺の墓地」)

L’air immenseがたいへん稀な表現で訳しにくいですが、ピエール・ベール『歴史批評辞典』に「万物は広大無辺の空気(L’air immense & infini)から生まれ、常に動いている。この空気こそが全原理をつかさどる神である」というアナクシメネスの言葉があり、また神学的な歴史観においても度々この言い回しが出てくるので、この詩篇のL’air immenseも世界の極まるところのない様態を表しているのだと思われます。

で、ここから本題。ヴァレリーの有名な言葉に「詩は舞踏であり、散文は歩行である」というのがありますが、この詩篇も、もともと内容面の着想があったわけじゃなく、或る純粋なリズムのー形式(つまり目的のない運動それ自体)を思いついたことがきっかけで書き始めたそうなんです。そして書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、作品の意図が己れの知らない何処かから出現したのですって  ざっと、5年かかって。

2018-11-13

カモメ・インフォメーション



東京新聞文化欄「私の本の話」に『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』にまつわるエッセイを寄稿しました。『フラワーズ・カンフー』の時はこの手の依頼はすべてお断りした(俳句の話って喋りづらい)のですが、今回は他の詩人たちを紹介する本ということで気楽に書いた次第です。

俳句誌『オルガン』15号に対談「翻訳と制約 〈漢詩〉の型とその可能性を旅する」が掲載されています。「漢詩って、つまりなんなの?」といった話を、「ページ数からしてこれ以上は無理」というくらいの山盛り&駆け足(※自分比)で編集者の北野太一さんと語りました。お問い合わせはメールorgan.haiku@gmail.comまで。記事の小見出しは以下のとおり。

「海外文学としての漢詩」/訓読はインスタント翻訳/漢詩は文語自由詩である/詩を選ぶ/視覚へのこだわり/省略と読み/星雲的な余韻/「ひるね」の視線/一日、一篇ずつ/きっかけ/エッセイにとどまること、ぶつぶつと/連句的な発想/欧文訓読と近代日本語の成立/怒られる?/演奏としての翻訳/本を読まない人生/不安定な定型/プレイヤーとして直感する/こんど

『週刊俳句』第603号に、表紙写真と短文()を寄せています。写っているのは、ここ数年仲良くしている近所の子です。

2018-11-10

夢の縫い目より






さっき岡田一実『記憶における沼とその他の在処』をどう読むかについて考えていて、ふと《夢の縫い目》という言葉を思いついた。

この《夢》は《無意識》と言い換えてもいい。

人は縫い目のない夢を見るが、言葉にされた夢には縫い目がある。岡田さんの句は助詞が縫い目になっているとみた。そこをほどくと、面白いことになりそうだ。



ここで翻って自分はどうかと内省すると、名詞をアップリケのように使っていることが多いような気がする。アップリケを外すと、その下から、擦り切れて、穴のあいた、よく知っている何かがあらわれるのではないか、と。

それにしてもアップリケとは。あまりに垢抜けない。本当は天衣無縫な作品を書きたいのに。でも当然のことながらダ=ヴィンチやブランクーシのようにはいかないのである。

天衣無縫に憧れる理由は、それが反権力のひとつのあり方だからだ。ものを書くとき、人が対峙することになる最大の権力とは、言葉それ自体の力能にほかならない。だから言葉をつかうときは、それが権力への意志という俗情に寄りかかっていないか激しく吟味する必要がある。

言葉によって虚栄を縫い重ねず、恐怖を覆い隠さず、綻びをつくろいもせず、言うべきことさえすっかり忘れて、ただ大空を鳥が舞った跡のような言葉の刺繍を生み出すことができたら。無論これは不可能であるがゆえに  書き手は言葉のもつ権力性から決して逃れられない  イデア足りうるような願いだ。

2018-11-09

虹の一族





心というものを「存在する」とか「存在しない」とかいった議論があるけれど、昔、こんな感じの文章(出典失念)を読んだことがある。

蝋燭は物体であり、炎は現象である。ちょうどそれと同じように、人間は物体であり、心は現象である。

まぎれもなく心は「存在する」。ただそれは、物体のような在り方で把持されるのではなく、むしろ炎や霧や虹の仲間だということ。

つまり、わたしが考え、また感じるとき、わたしとは虹のように存在するのである。

亡き妻の全身重し虹のなか   渡辺松男

2018-11-07

死に至る記念碑





秋の連休は、絵本の整理をした。

整理の最中、あたらめて感じ入ったのが、絵本におけるジャック・プレヴェール使用率の高さ。たしかにプレヴェールって絵が描きやすそうだ。ポール・エリュアール、フランシス・ポンジュあたりも絵筆が伸びるのではないかしら。

孤独、あきらかにかたつむりは孤独だ。あまり友達がいない。だが、幸福であるために友達を必要とするのではない。彼は実にうまく自然に密着している。密着して、完全に自然を楽しんでいる。かたつむりは、全身で大地に接吻する大地の友だ、葉の友だ、敏感な眼玉をして昂然と頭をもたげる、あの空の友なのだ。高貴、鷹揚、賢明、自尊、自負、高潔。

(……)だが、おそらく、彼らは自己表現の必要を感じていないだろう。彼らは芸術家、つまり、芸術作品の制作者であるというより、  むしろ、主人公であり、いわばその存在自体が芸術作品である存在なのだ。

しかし、ここに、私が述べるかたつむりの教訓の主要な点の一つがある。それは彼らに特有なものではなくて、貝殻をもった生物がすべて共通してもっている教訓なのだ。彼らの存在の一部分であるこの貝殻は、芸術作品であると同時に記念碑なのだ。そして、それは彼らよりずっと永く残るのだ。
– フランシス・ポンジュ「かたつむり」

「牡蠣」「軟体動物」「かたつむり」「貝に関するノート」「海辺」  ポンジュの詩はモチーフも、世界との距離感も、とてもいい。

貝殻をもつ生き物たちは、指の先から乳色の汁を出しながら、死へ向けて貝殻を作り続ける。貝殻をもたないわたしたちも、自分たちなりのやり方で〈死に至る記念碑〉を少しずつ巻き上げている  人生というスパイラルを。

2018-11-05

枕詞使用法(2)





小池さんの歌のように、枕詞と被枕詞との接合に工夫や創造があるものを狂歌本からいくつか拾ってみます。

みよしのゝ山もり雑煮春来ぬと湯気も霞みて芋はみゆらん
玉くしけ二きれ三きれおやわんの雑煮に腹の春は来にけり

酒上不埒『狂歌猿の腰掛』『栗花集』より。酒上不埒は恋川春町の狂歌名です。それから、枕詞を新調するという手もありますよね。

かまぼこのいたく思へは夜は猶日にいくたびか身も焦がれつゝ

作者名は失念しました。時間ができたら調べてみます。あと口調が可愛いこんな狂歌。

久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月

半井卜養『卜養狂歌集』より。この人はさらりとした歌が多いです。また「ひさかたの」といえば、

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

の正岡子規も。子規って俳句より短歌の方がうまいと思うんですが、業界ではどう言われているのでしょう。〈打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に〉〈今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな〉とか、彼のベースボール短歌はみずみずしくて素敵です。最後に江田浩司『まくらことばうた』から一首。

こもりぬのそこの心に虹たちてあふれゆきたり夢の青馬  江田浩司

2018-11-02

枕詞使用法(1)





談林俳諧には枕詞の変則的技法が少なくないようですが、私が枕詞の粋を最初に理解したのは、

あかねさす翳とひかりのささめごと誰かあなたと流れゆく星   小池純代

という一首でした。「あかねさす」と「ひかり」との間をくっつけない、その一息分の隔たりに、なるほど、風韻とはこうやって醸すのだなあ、と思ったものです。

小池さんには、勤め人の日常風景を枕詞で綴った連作「鹽の人人」というのもあって、こちらは文字通り談林的な枕詞遊びになっています。

ともしびの明石櫻子ひとひらが地に着くまでの眸(まみ)のうつろひ
沖つ鳥「賀茂鶴」の壜傾(かたぶ)けてとふとふとふと鳴く口あはれ
御民(みたみ)われ生ける證(しるし)よ荒玉のタイムカードに載せる日月(じつげつ)
種種(くさぐさ)の業務繁りて疊(たた)なづく靑山通りビジネスビルぞ