いったい俳句は文学なのか?
この種の話はいろいろとむずかしい。なぜなら文学という高次の概念はわたしたちの具体的な営みのあとからやってくる意匠にすぎず、個々の営みはジャンルというものを想定せずに行われるからだ。
実際のところ、俳句にたいする印象というのは人それぞれだろう。わたし自身は歌であると感じる瞬間が多い。また文学や音楽といった意匠をまとうことがためらわれるほど短く、あらゆることを語り損ねるだろうこの詩形の佇まいに、人間の生そのものを感じることもある。
ポメラニアンすごい不倫の話きく 長嶋有
長嶋有の俳句は了解性が高く、それでいてみずみずしい。掲句はカマトトすぎる〈すごい〉の使用法がまさにすごい。技が一つ決まった感じだ。
ところで「一本決まった」ということは、これは大喜利俳句なのだろうか? いやそうではないだろう。その証拠に、掲句は「姦通」という文学における永遠のテーマに言及することで、文学の側にぐっと踏みとどまっている。ただし文学という概念を高次から纏うのではなく、コートのように丸めて脇にはさんでみせたのだ。もしかするとこの句は、文学とはなにかということをさまざまな角度から考え、トライアル&エラーを繰り返した人ならではの返し技なのかもしれない。
(
ハイクノミカタより)