2020-11-17

翻訳をめぐる、ささやかな宵




宵の口の海を散歩しながら、12月5日のトークイベントで話す内容を考えていたのだけれど、ひとつの翻訳ができあがる過程、その内部機構というのはブラックボックスだなあと改めて思った。


たとえば「この詩はこういった制約で書かれているからこう訳せばよい」とわかったとしても、所詮それは頭でわかったにすぎず、実際の翻訳とはいきあたりばったりをいかに収斂させるかの作業になる。このいきあたりばったりを排除することは決してできない。なぜなら、いきあたりばったりとは、他者と出会う可能性そのものだからだ。

逆からいうと、仮にいきあたりばったりを経ずに翻訳が終わった場合、その間わたしは他者といちども出会わなかったということになる。そこでのわたしは自分の理解できるものだけを見ようとしていたわけだ。けれども出会いのない翻訳なんて時間を削ってやる意味があるだろうか? 自分が直感で知っている定石以外の定石を知るための、そして感覚の盲点をつく言葉のパターンに驚くための旅をするのが、わたしは好きだ。

ところで、じゃあ「ここはどうしてこう訳したのですか?」ときかれても説明できないのかというと、それは全然そんなことはなくて、一語一語説明できる。ただその説明は、その一語に収斂させた(限りなく経験にもとづく)直感の働きそれ自体とは別のものだよって話。リアルなあの日と胸にのこる思い出とが別であるように。翻訳を語るとは、けっきょくのところ思い出を語ることだ。