2021-07-29

体感する装置としての漢詩





暑い一日。朝から蟬が鳴きっぱなしで、頭がじーんと痺れている。

無題   大窪詩仏

古松林裏聴蟬鳴
先生先生先生声
声声似把先生笑
莫笑先生老遠行
三十年来旧遊地
白首重来幾先生

古さびた松林の奥から
セミの鳴き声が聴こえてくる
センセイ センセイ センセイ
という声だ
どの声も どの声も
センセイを笑っているようだが
笑っちゃいけない
年老いたセンセイの遠出を
三十年前
あそんだこの地に
白髪頭のセンセイが
この先なんど来られるというのか

淡々とした語り口にユーモアとペーソスがある。また興味深いのは、先生先生先生(シャンシャンシャンシャンシャンシャン)という大音声がひとつの内省的なコスモスを創出する装置になっていること。もしも読者にその気があれば、このノイズの洪水に身をゆだね、その律動と共鳴し、意識を宙に遊ばせることもできるだろう。詩仏は鑑賞するというよりむしろ体感する装置としての漢詩を制作してみたかったのかもしれない。

大窪詩仏は江戸後期の売れっ子漢詩人。彼が生きたのは深みや厚みに毒された古文辞格調派の詩文を離れ(つまり李白や杜甫のものまねをせず)、ごくありふれた日常を描くのが珍しくなかった時代だけれど、その中でも詩仏ほどライト・ヴァースがうまい詩人はいないと思う。もちろんライト・ヴァースとは表現や感覚の軽さを指し、主題の軽さを指すのではない、まさにこの詩のように。