2021-08-21

わたしの恋の相手





今朝、太平洋のまんなかに住む友達から『いつかたこぶねになる日』の写った写真が届く。うれしい。彼女も6月に溺れかけたそうで、現在は心の傷と向き合いつつ、ほそぼそと海で泳いでいるとのことだった。

夕方の海は監視船がいっぱいで、いちばん近づいたときは4メートル幅くらいで左右から挟まれた。わたしは腰にプールヌードルを巻いていた。まだ足の届かないところは怖いけれど、水に浮くということの、ほとんど笑いに酷似した面白さが勝っているようで、やはりわたしは海に恋したままだった。あまりに好きすぎて、これが片思いであると思うと胸が苦しくて涙が滲むくらい。と書いて『夫木和歌抄』の

わが恋は海の月をぞ待ちわたる海月の骨に逢ふ世ありやと  源仲正

を思い出す。無脊椎動物である海月が骨と一つになる世界が存在しないように、自分は逢うことのできない、海に映る月さながらのあなたを待ち続けているという歌だ。

わたしにとっては海こそが恋の相手であり、この思いはしかし届かず、わたしは永遠にひとりだーーかつてない幸福を享受しながら。

2021-08-19

ジャワティーを編む世紀末帖





なにかのあるなしにかかわらず、心身のコンディションって波がありますよね。わたしは7月中旬から次第に崩れはじめ、寝たり起きたりの状態になり、10日は海の中でチンクイに刺され、15日はハイクノミカタの連載を休み、きのう18日はついに(といっていいのか)溺れてしまった。救助がなかったら死んでた。

夜になってもまだ動悸や不安感がおさまらず、そんな自分の状態を冷静に眺める自分もいて、ああ、溺れるってこんなに精神に影響を及ぼすんだと思いつつ眠りについたのだけど、自分の想像をはるかに超えて抵抗力が落ちていたようで、朝起きたら綺麗に治ったはずのチンクイの跡が刺された日以上に腫れていて、そのぶり返し方に度肝を抜かれた。からだの中に毒が残っていたみたい。いまはミミズ腫れが30箇所ほどある状態です。

今日は夫が仕事帰りにプールヌードルを買ってきてくれるというので、それを持って夕方から海へ。今日行かなかったら一生泳げなくなりそうなので行く。膝くらいの深さのところに座って、ぱちゃぱちゃリハビリするつもり。

ああ、書いてたらまた心臓がどきどきしてきた。この日記を書く前に明日締め切りの原稿を仕上げてよかった。これからまた夕方まで横になります。そうだ、澤8月号(創刊21周年記念号)に寄稿しているのでした。あとなんかあったかな…ちょっと思い出せない。

付句メモ(無季)
七つの海をつなぐ履歴書
ジャワティーを編む世紀末帖
泡の吐息をくぐる航海

2021-08-04

夏のスイカの味





初夏に夏のパジャマを二枚買ったのに、まだ冬のパジャマを着ているなんて今年は涼しすぎる。このまま暑くなるのを待っていたら食べ損ねてしまうから、今朝家人と二人で八百屋に出かけてスイカを買ってきたのだけど、午後4時のいまも扇風機要らずで靴下まで履いている。こんな気温でおいしく食べられるだろうか。不安だ。

(二時間後)いま海から帰ってきて、シャワーを浴びて、食べました。まあまあおいしかった。やっぱりスイカって、しっかり体が冷えますね。氷かじってもこんなに冷えないですよ。

連句のお誘いを受け二巻同時に巻き始める。付句メモ。

(時)
ねぐらなき鴉に夜を貸し出して
伯林のシェフは記憶の虚をついて
夭折の墓標おもほゆ海昏れて
願はくば鰐を最後の晩餐に

(遊び・競技)
カードをめくる天気予報士
歌詞を忘れて自転車を漕ぐ
骨までしやぶる争奪戦に
右に曲がりし闇のヨーヨー
土星に槍を投げにゆかむか
うたかたはいつ燃えさかる舟

2021-07-29

体感する装置としての漢詩





暑い一日。朝から蟬が鳴きっぱなしで、頭がじーんと痺れている。

無題   大窪詩仏

古松林裏聴蟬鳴
先生先生先生声
声声似把先生笑
莫笑先生老遠行
三十年来旧遊地
白首重来幾先生

古さびた松林の奥から
セミの鳴き声が聴こえてくる
センセイ センセイ センセイ
という声だ
どの声も どの声も
センセイを笑っているようだが
笑っちゃいけない
年老いたセンセイの遠出を
三十年前
あそんだこの地に
白髪頭のセンセイが
この先なんど来られるというのか

淡々とした語り口にユーモアとペーソスがある。また興味深いのは、先生先生先生(シャンシャンシャンシャンシャンシャン)という大音声がひとつの内省的なコスモスを創出する装置になっていること。もしも読者にその気があれば、このノイズの洪水に身をゆだね、その律動と共鳴し、意識を宙に遊ばせることもできるだろう。詩仏は鑑賞するというよりむしろ体感する装置としての漢詩を制作してみたかったのかもしれない。

大窪詩仏は江戸後期の売れっ子漢詩人。彼が生きたのは深みや厚みに毒された古文辞格調派の詩文を離れ(つまり李白や杜甫のものまねをせず)、ごくありふれた日常を描くのが珍しくなかった時代だけれど、その中でも詩仏ほどライト・ヴァースがうまい詩人はいないと思う。もちろんライト・ヴァースとは表現や感覚の軽さを指し、主題の軽さを指すのではない、まさにこの詩のように。

2021-07-26

柳と花の具体詩





高啓の詩「胡隠君を尋ねる」にはファンが多い。

渡水復渡水
看花還看花
春風江上路
不覺到君家

水を渡り また水を渡り
花を見 また花を見る
春風 江上の路
覚えず 君が家に至る

ファンが多いというのはオマージュもまた多いということで、その実例として『カモメの日の読書』では作品をいくつか引いたけれど、また新たに大須賀痩玉の詩「人を訪う 高青邱の韻に次す」を見つけたのでメモ。

柳外柳外柳
花前花前花
行尋花柳路
春色在君家

柳外 柳外の柳
花前 花前の花
行きて尋ぬ 花柳の路
春色 君が家に在り

「柳のそとの柳のそとの柳/花のまえの花のまえの花」というコンクリート・ポエトリー的なフォルム。それでいてミニマリズム一辺倒にならない、花と柳のかもしだす春爛漫の演出がいい。陸游の詩句「柳暗 花明 また一村」を連想させる光のコントラストも華麗だ。

2021-07-25

夏にぴったりの一句





今週のハイクノミカタは葛飾北斎の辞世句〈ひと魂でゆく気散じや夏の原〉をとりあげました。夏にぴったりの一句です。それに対する湊圭伍さんのツイート。


川柳から見た狂句の位置付けについては、以前「喫茶江戸川柳」の葛飾北斎の回で飯島さんがとてもきれいに解説しているので、興味のある方はぜひご覧ください。

昨日は朝八時半に家を出、北の郊外に石の展示を見に行く。昼は地元のバーガーショップでチキンバーガーとアップルパイを食べ、午後は西の郊外で市民講座を聴講。疲れてしまって最後は聴きながら舟を漕ぐ。

2021-07-22

世界のめくるめく片隅





朝から床の張替えの下調べをする。いまの床は大理石なのだけれど、新しい住居はタイルにする予定で、見本の質感をチェックしているのだ。いまのところ手頃な値段のものは見つからず。

頬杖をつく私のまえには、こちらに背を向けた家人がいる。何かの立体模型をもくもくと作成しているようだ。どうしようかしら。とりあえず一息つこう。

台所に行き、ミントとバジルの葉、ターメリック、ジンジャーを合わせたハーブティーをガラスのポットで淹れる。フィナンシェがあったので、それをおやつにしつつ、池澤夏樹『「メランコリア」とその他の詩』(書肆山田)をひらく。「メランコリア」はイラストレーターの阿部真理子との共著(同タイトル、光琳社出版)から文字のみを再録したもので、内容はアンナという名の女を探す「私」の魂の漂流を綴った連作詩になっている。昔、光琳社出版のそれを見たときはポップな小説風に感じられたのに、今回文字だけを読むとシュルレアリスムの香りが濃くて、詩は供し方で味わいが変わるとつくづく思う。いっぽう変わらない部分もあった。マルチカルチャーな体臭だ。ひとつひとつの言葉が明快で、風景がくっきりと浮かび、それでいて現実感を欠く世界の、めくるめく片隅。知性に働きかけてくるアンナの白昼夢に「私」が途方に暮れるさまが魅力的だった。

4 砂時計  池澤夏樹

その古道具屋は私に
さまざまな品を見せた
探しているようなものはなかったから
私は何も買わなかった
最後に彼は店の奥から
秘蔵の品と称するものを持ってきた
古い小さな砂時計一つ
彼はしばらく黙って見ていてくれと言うと
それをひっくり返して、行ってしまった
十五分たっても砂は絶えなかった
上の砂も下の砂も量が変わらなかった
私はこの
時を計ることのできない
永久砂時計を買った


三日後
私は誰もいない砂漠にそれを捨てた
永久にアンナを探し当てられないことの
象徴のように思われはじめたから


「その他の詩」は2歳の時の詩(父・福永武彦による記録!)、九州日報に掲載された福永武彦6歳の詩、子供たちに贈った詩、原田知世のアルバムに寄せた歌詞、漢詩の翻訳など。見事に雑めくラインナップで、抽斗の中を見せてもらった気分になります。


2021-07-19

砂が乾くことの不思議





本格的に海水浴がはじまって一ヶ月。きのうはレジャーシートをひろげるためにあたりを見回したら、みんなすっかり日焼けして、なまっちろい人が誰もいないことに気づく。もちろんわたしもすっかり焼けている。というかもう10年近く、焼けていない自分を見たことがない。

わたしにとって海というのはシンプルにうきうきする空間で、波に向かって駆け出す瞬間は、かちゃっと(←カセットデッキのボタンの音です)ビーチ・ボーイズが脳内でかかる。あのアホっぽさがいいのだ。

が、ふいに風の音にかき消されるくらいのかぼそさで、潮の香りのジャズが聴こえてきたりすると、それはそれで「あ」と心にひっかかる。

そういえばさいきん、誰もいない朝の広場でタルト・トロペジェンヌを食べていたとき、いきなりフランク・シナトラのFly Me to the Moonが流れてきたことがあった。どこからだろうとあたりを見回すと、広場に面したCDショップからだった。高齢のヴァカンシエを狙った選曲だったのかしら。シナトラって、全く聴かない人からするとハリー・ウィンストンでゆくクラブのイメージなんじゃないかと思うのだけど、あんがい朝と相性の良い声をしている。

波が引くと濡れた砂浜があらわれ、またたくまに乾く。そのことのふしぎ。