2018-06-08

第一句集の時期はいつが良いか?





涼しい朝。昼間は23度くらいで安定しており、過ごしやすい毎日。

先日、タイトルにあるとおりの話を人に振られました。この回答は第一句集の数と同じだけ存在するでしょうが、わたしはこんな風に思います。

句集を編む作業は楽しい上に勉強にもなるので、誰でも、いつでも、他人に遠慮せずやってみたらいい。

コツはゆっくり楽しむことと、自作の9割を捨てるつもりで編むこと。

9割となると佳句も手放すことになりますが、そのかわり「ここは動かない」といったその人の色が見えてくる。あとはその色が互いに反応してひとつの総体的な「作品」を描きだすように意識しつつ、捨てた句の中からふさわしいものを、もういちど拾い直せばいい。

これは庭作りにおいて、はじめに大きな木を選び、ついで残りの部分を考えてゆくのに似ているかもしれません。句の色がさまざまなときは、柵で庭を仕切る(部立てにする)にするのも一考。

句集を編むのはいつでもいい一方、刊行については思案のしどころ。処女句集を出せるのは生涯に一度だけ。うんと踏み込むか、さらりと通過するか。ずっと出さないという選択もクール。

わたしの場合は(田中裕明賞受賞の言葉として以前にも書いたことがあるのですが)、数少ない知人である西原天気さんに「句歴がほとんどない人(わたしのこと)が句集を出してもいいと思いますか?」とメールで質問しました。すると「まじめに答えたいので、長考に入ります」との返事を頂いたのですけれど、この時点で、次のメールが100%の肯定でなければ出版しないつもりでした。

で、西原さんから「出したらいいと思います」と再度メールがあり、そこから句の整理を始め、あとがきを書くまでに、ちょうど丸一年かかりました。

これはわたしには絶対に必要な長さだったと思います。具体的には、お気に入りの句や人に褒められた句を「この句集には要らない」とあっさり手放す気持ちになるのに、それだけの時間が必要だったということです。

句集というのは我執の塔ではあり得ず、あくまで生きた句群、胎動する言葉の寄せ植えなので、人間のわがままで彼らの嫌がることをすると、たちまちオーラが失われてしまいます。種を蒔き、育てたのが自分でも、その植物の命まで自分のものではないのと同様に、俳句や句集もまた自分の所有物であるようでいて、これっぽっちもそんなことはないのでした。

そんなわけで、句集刊行の時期については「お気に入りの句を捨てられるようになったころ」というのが個人的な回答です。