戸は萩にわれは仮寝に酔うてをり 夜景
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【暮田真名句集『補遺』批評会】
2019年10月13日(日)の午後から開催されます。場所などの詳細はこちら。この批評会、パネリストの顔ぶれがうれしいです。おすすめ。
【喫茶江戸川柳】
其ノ漆のメニュウは「江戸働き方セット」です。貸本屋、柔術家、からくり師、虫売り、西瓜売りの川柳を習いました。
【土曜日の読書】
「タヌキとササキさん」。引用は森銑三『増補 新橋の狸先生 私の近世畸人伝』より。
「月をつくる」。引用は中川一政『画にもかけない』より。
【週刊俳句第649号】
書評「とかくこの世は 小川軽舟『朝晩』の2句」を寄稿しています。
【角川俳句10月号】
連作「探偵とゆく小道」を寄稿しています。
2019-09-28
最近のあれこれ
2019-09-26
2019-09-25
抽斗堂 no.37 ラバー・ダック
抽斗堂no37はラバー・ダック。全長8,5cm。夫の出張先で参加者全員に配られた土産です。いろんなところに塗料がついていて、作りが雑でかわいい。顔つきも、抽斗をあけるたびにうれしい。たまにテーブルに飾っています。
話は変わって、これまで何度か「抽斗堂の抽斗って何段あるのですか?」と質問されたのですが、これが2段しかありません。no.100まで行けたらいいな。
2019-09-24
抽斗堂 no.36 デザートナイフ
抽斗堂no36はデザートナイフ。ブロンズ製で柄の意匠がアール・デコです。昨日の日記と同じ店で見つけたのですが、刃のデザインが知的で気に入り「このペーパーナイフいいですね、骨董に詳しい人への贈り物にしようかな」とご主人に言うと、
「これ、1920年ごろのデザートナイフです。ペーパーナイフじゃなくてね」
との説明。あ、そうなのかと思いつつ、食卓で使用するには古すぎるので、抽斗に入っています。
それにしても、こういった、刃に丸みのないデザートナイフって見かけないですよね。アール・デコ期のカトラリーと比較してもめずらしい。
2019-09-23
抽斗堂 no.35 硝子製のノブ
抽斗堂no35は硝子製のノブ。骨董市で発見したのですが、いつの時代のものなのかわかりません。ゆがんだ形をしていて、くぐもった硝子の中に気泡が入っていて、水母を思い出します。
で、これ、とてもすごくて、何がすごいかというと、握ったとき手が安心するんですよ。さすがノブだけに。ノブ・コレクションを始めたくなるくらい、フェティッシュな感性を刺激するんです。
2019-09-21
さようならの手法
野の色で終はる出逢ひが此処にある 夜景
柳本々々さんの言葉に「川柳は〈さよならの文芸〉である」というのがありますけれど、これってすごく魅力的な命題だなと思います。たしかに川柳は手をかえ品をかえおしまいをテーマにしてきた。
一方、俳句にも挨拶句というのがありますが、これは贈答や応酬の意味合いを含んでおり、ほとんどが日常のご機嫌伺い、すなわち〈こんにちはの文芸〉として機能している。
ここで自分自身を振り返ると、たしかに私も〈さよなら〉を詠むとき、感情をそのまんま私性たっぷりに詠むことってまずないです。で、語るときは遥かなる必然として語る。あるいは絶句という仕草で語る。
だって別れは語りえぬものとして訪れるから。あるいは語りそこねるものとして。
出逢いは対称である反面、別れは非対称です。さようなら、とちゃんとお互いに伝えあえることって、人生でほんとに稀だと思うんですよ。
かぎろひの五言よ永遠に絶句せよ 夜景
2019-09-20
ちまきをもらう(澤の俳句 2)
道喜よりどさと框へ粽五把 高橋睦郎
上島鬼貫の〈文もなく口上もなし粽五把〉をふまえた〈粽五把〉がかっこいい。どうやら〈へ〉の一語が、下五をダンディにみせる切り返しの機能を担っているもようです。
またわずか五把の粽に〈どさ〉という形容がはたして適切かどうかの点については、頭韻における〈道喜〉との音合わせで解決すると作者はふんだのでしょう。もっと言えば、まずもって〈道喜〉という屋号(京都の御ちまき司「川端道喜」のこと)があってこその〈どさ〉なのだろうと。
ひとつ付記すると、鬼貫の句は松永貞徳と木下長嘯子とのあいだで交わされた手紙が発想源です。長嘯子『挙白集』によると、貞徳が〈近き山紛はぬ住まひ聞きながらこととひはせず春ぞ過ごせる〉という歌を添えて粽を送ってよこしたのに対し、長嘯子が〈千代経ともまたなほ飽かで聞くべきはこの訪れや初ほととぎす〉と返歌したとの話。実はこれ、どちらの歌も沓冠折句で、貞徳は「粽五把まひらする」、また長嘯子は「粽五把もてはやす」の文字列を隠しているのでした。
2019-09-19
恋とサーフィンとおもてなし(澤の俳句 1)
6月から『澤』の句評を担当しているのですが、『澤』ってこんなだったのか、うーん、とおもしろがっています。いろんな人がいるんですよ。で、少し前の句評をブログに使っていいかどうか編集部にきいてみたら「いいですよ」とのお返事。そんなわけで今日は高橋睦郎さんの卯波づくしを。
卯月波立てば疼きぬ舊き戀 高橋睦郎
卯月=疼きの音合わせに狂句っぽい雑味がありますね。あとこの句にはどうしたって平経正〈はつせがは岸の卯の花散るときは騒がぬ水も波ぞたちける 夫木和歌抄〉を添えないではいられませんよ。恋だもん。
まぼろしの卯波や銀座一丁目 高橋睦郎
作者自解によると「まぼろしの卯波」とは鈴木真砂女の料理屋「卯波」に銀座がかつて海だったことを重ね合わせたのだそうです。とすれば、この句をおいしく味わうには波打つ酒をよろこびつつ、またほんのりと宴にたゆたいながら、藤原家良〈しろたへの垣根に咲ける卯の花にもてなされたる夕月夜かな 夫木和歌抄〉を胸に薫らせるとよさそう。おもてなしの夜に。
卯の花の騒ぐを庭の卯波とし 高橋睦郎
卯の花=波の見立ては良経、西行、慈円など昔から少なくありませんが、この句は藤原重家〈卯の花の咲きぬる時は白妙の波もてゆへる垣根とぞ見る 新古今和歌集〉の仕立て直しでしょうか、とてもさりげない平句です。また卯の花といえばロビン・ギル『古狂歌 滑稽の蒸すまで』に、との素敵な文章が存在します。ギルさんと同じく地中海性気候の田舎町で暮らす身としては、ああ本当にそうだなあと感じ入ることしきりです。暑い日は、納涼の効果が抜群で、この花が現に、白波に似る。北フロリダで卯の花の長い垣がまるで砂浜の大波の感じで瞼にサーファーも浮かんだ。花が重くなると崩れ方も波とそっくり。低い壁の外側で風もそちから来ると石の上に砕くようの枝振りまでもそうです。石垣の側だったら歌舞伎の意味での白波になってそれを越すが、それも。
2019-09-18
一糸まとはぬ
ほうと吐き一糸まとはぬ月自身 夜景
先日の中秋は、夫がライ麦の塩餅をつくってくれました。丸いのを8個。蜂蜜と黒胡麻をかけて食べました。
花鳥風月というのは人をさみしがらせる遊びだなあとしみじみ思います。そしてまた、この世に歌がなかったら、生とはどれだけ耐えがたい時間だろうか、とも。
歌の中では俳句が好きです。今さらながら。
2019-09-17
ひかりにふれる白
往復書簡「LETTERS 古典と古楽をめぐる対話」は第11回「明るく、静かで、軽い舌」。サント・マルグリット島、ハワイの俳句、不滅へ近づけようとする意志、崎原風子、時間や空間に位置づけられない異界、失語・失律の飽くなき紆曲。上はこちら、下はこちらからお読みいただけます。
* * *
八上桐子、牛隆佑、櫻井周太の三氏による、川柳と短歌と詩の「フクロウ会議」。first work 『蕪のなかの夜に』が発売中です。八上桐子さんが小津の一句を仕掛けにした変奏連作「はぐれる鳥」を書いて下さっています。
もえて燃えきってひかりにふれる白 八上桐子
待ってました~!
— 葉ね文庫 池上きくこ (@tobiyaman) 2019年8月27日
フクロウ会議『蕪のなかの夜に』入荷しました。
フクロウ会議は、八上桐子さん、牛隆佑さん、櫻井周太さんによる川柳と短歌と詩のユニットです。#葉ね入荷
このユニット、めちゃくちゃいいですねぇ。ジャンルを越えて、作風は違うけど、同じ空気感をもつ作品が連なります。 pic.twitter.com/61hwVUNfgF
2019-09-16
新しい室内靴
室内の靴。ローファーだったり草履だったりデッキシューズだったりと遍歴を重ね、最近は上のスニーカーを履いていたんです。でも思うところあって、今日からadidasのサンダルを試すことに。ジーンズも今日4ヶ月ぶりに履きました。もうすっかり涼しい秋です。
2019-09-12
抽斗堂 no.34 白いガーゼの扇
抽斗堂no34は白いガーゼの扇。いただきものです。広げるとふわふわして風のよう。机に置くと、扇よりも貝に似ています。
夏あふぎ夜半のとばりを鞣しけり 夜景
* * *
小池純代にマラルメの「マラルメ夫人の扇」を長歌&反歌のスタイルに翻案した遊戯があります。こんなの。
わたしの胸はことだまの 仮の住まひにすぎぬもの
わたしの妻はわたくしの 仮の宿りにすぎぬもの
過ぎてしまへば何もかも 仮でないものあらぬもの
*
仮の吾妹(わぎも)のその手にゆるる仮の扇よわが心
この反歌は短歌(57577)ではなく都々逸(7775)になっているのですが、言の葉が扇のようにゆらゆらして見えて楽しい。都々逸って、ともすると最後の5音に尻切れとんぼの味が出ますよね。言い切らないうちに終わりが訪れた時は、少し切ない。
2019-09-11
この世界の確かさと不確かさ
在らぬさへ見あかしあはれ見しことの 夜景
江戸の歌や句を読んでいると、哲学的触手の濃厚なものが多くて驚きます。いろんな人が、あの手この手で、〈この世界の確かさと不確かさ〉を同時に言語化しようとしているんですよね。
うつつなきつまみごころの胡蝶かな 蕪村
うつつとは思えぬ存在の感触が指先にあるーー存在と不在のおりなすこの種の表現は、いつでも句歌の掘り下げてきたところです。
器世界に物ありひとつ朧松 也柳
各務支考『三千化』より。具象と抽象の重なりあうところに生まれる静かな情趣。〈物あり〉と断言しつつもそれが〈朧〉に包まれているという矛盾。ここには本質と現象との〈近くて遠い仲〉がたくみに描かれています。器世界は自然環境としての世界のこと。サンスクリット原語でも文字通り「容器たる世界」の意味だそうです。
●参考「LETTERS」より
「存在の青い灰」江戸の句に見える「世界」について1、2
「なしのたわむれ」狂歌に見える存在と不在について1、2
2019-09-09
ことばのまちがい
しろながすくぢらのやうにゆきずりぬ 夜景
ことばは、うっかりまちがうときと、そうでないときとがあって、そうでないときというのは、ここはまちがえたほうがいいんじゃないかな、と思ってやる。上の拙句もそうですし、
ゆけむりの人らと少しかにばりぬ
もまちがってみました。片や古典だと、いまノートをひらいてぱっと出てきた変なことばが「手もあやに」。むかし調べたことがあるんですが、2例しか見つからなかったので、かなりとっぴな用法だったのではと思います。
手もあやに文箱の深紅かゝやきて 正秀(各務支考『笈日記』)
梅花飛琴上
たをやめのゆの手もあやに薫るめり琴柱(ことぢ)に梅の散りかゝりつゝ
橘千蔭
橘千蔭『うけらが花』の脚注には「手もあやには手の変化さまざまなのを色や模様のいろいろなのに喩えた」とあります。「ゆの手」は絃におく弓手(左手)のこと。梅の散りかかる乙女の指のうごきををうっとりと華やかに詠んで、なんだか泉鏡花っぽい歌です。
2019-09-07
Tarte Tropézienne
スプーンを舐めて高きに上るかな 夜景
土曜日の読書「お菓子の記憶」更新。引用は岩本素白『素白先生の散歩』から「菓子の譜」を。私、いまでは自分のことを甘いもの好きだと思っているのですが、周囲に言わせるとこれっぽっちも好きの部類には入らないらしい。なんでもこの道の「好き」は量に耐えられる者しか自称してはならないそうで。
そう言われてしまうと、たしかに自作のチョコレートケーキはだいじょうぶでも、ケーキ屋さんのはぎりぎりくらい。写真のタルト・トロぺジェンヌはブリジット・バルドー命名のお菓子で、夫と半分ずつ食べてちょうどよかった。サン・トロぺはいつか行ってみたい町です。
2019-09-06
抽斗堂 no.33 24色の色鉛筆
抽斗堂no33は24色の色鉛筆。先月ボナール美術館で購入したばかり。
色鉛筆では白の佇まいが好き。でも黒もふしぎだ。黒は存在する色をすべて呑み込んでしまう。そんなものをほかと同列に「色」として扱っていいのだろうか。でもそれをいうなら白も白なりに変かもしれない。稲垣足穂は幼稚園にもいかないころ、姉の机に白の色鉛筆を発見して、これは何用につかうのだろうとふしぎに思ったそうだ。で、そのあと黒の色鉛筆を発見して、こんなの墨や鉛筆と同じじゃないか、なんでわざわざ色鉛筆に加えるのか意味がわからなかったとも書いている。
2019-09-04
2019-09-02
貝殻と薔薇
先日のブログを読んだ方から、フランス語の詩で暗唱しやすいのはありますかと聞かれました。うーん、なんだろう? とりあえず自分が今ぱっと暗唱できるのは2編しかなくて、どちらもシンプルです。
耳 ジャン・コクトー(堀口大学訳)
Mon oreille est un coquillage
Qui aime le bruit de la mer.
私の耳は貝の殻 海の響を懐かしむ
これは定番ですよね。で、もう一つはポール・ド・ルセギエのバラに捧げたソネットで、本によっては「乙女の墓に」なんてタイトルがついていることも。なんと一行が一音節しかありません(全部で14音節なので俳句より短い定型詩ですね)。ソネットの脚韻の仕組みも理解できます(ドイツ語の冠詞の活用を覚える気分にもなれます)。
無題 ポール・ド・ルセギエ(串田孫一訳)
Fort
Belle,
Elle
Dort ;
Sort
Frêle !
Quelle
Mort !
Rose
Close,
La
Brise
L’a
Prise.
いと
美しき
もの
眠る。
脆き
生命(いのち)、
傷ましき
死よ。
薔薇は
萎れ、
微風(そよかぜ)
立ちて
連れ
去りぬ。
付記 この詩、実は串田孫一訳はジュール・ド・ルセギエ作となっているのですが、原語で読むとポール・ド・ルセギエ作となっていることの方が多くて、手元の本はどれもそうです(二人は父子の関係です)。どちらが本当なのでしょう?
2019-09-01
夏の思い出
思ひ寝を弔ふバニラアイスかな 夜景
往復書簡「LETTERS 古典と古楽をめぐる対話」は第10回「片隅と世界と」。飛行機で夜を乗り継ぐ、安部公房のリンゴ、永瀬清子の「あおい」、音楽の解放、スピノザの家、隠遁と自由、マルケスの秘密、楽器の記憶、片隅の灯台から世界へ。上はこちら、下はこちらからお読みいただけます。
須藤さん、この夏のヴァカンスは長かった様子。私はこの夏は連休がなくて、そのかわり日帰り旅行を3回しました。どの旅も楽しかったのですが、それよりもずっと素晴らしかった夏の思い出は、数日前に須藤さんから届いたグリーティング・フォト。外間隆史さんの姿が写っていたんですよ。とてもお元気そう。もう嬉しくて嬉しくて。
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