2021-09-12

しっぽのきらめく小説





ラストの一節がぴしりと決まったエンタメ小説っていいですよね。夏目漱石『こころ』とか『坊ちゃん』とか。この「ぴしりと決まる」にはいろんなパターンがあって、面倒臭くて端折りたくなるような(また実際にほとんどの読者が斜め読みするような)ラストが、あたかも映画のエンドロールを眺めているかのごとき余韻を湛えることもある。森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』などはあえて読者を引き込みすぎずに流した典型かと思います。

「文章の書き方」系の本って冒頭の重要性については述べるのに結びの一節についてはめったに検討していなくて、あれは本当に不思議です。鯛に尾頭がついていると、実際には身の部分しか味わわないにしても印象に厚みが出ますけど、このときもみんな尾を見過ごしてるじゃないですか。かなり奇妙なたとえですけど、ラストの軽んじられ方ってこの尾に似ているなって思うんですよね。

清(きよ)の事を話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまり嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めて下さい。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。(夏目漱石『坊ちゃん』)

小説のプロットを全て消化した後、おまけとして語られた『坊ちゃん』のラストシーン。無駄のない筆さばきが涼しく、ただひとつの接続詞「だから」がきらきら光っています。