2021-09-20

「論理の脱臼」と「句意の圧縮」





今週のハイクノミカタは〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺/正岡子規〉をとりあげたのですが、朝起きたらこんな質問が届いていました。

この句、「ば」が気になります。
A「柿くへば」からB「鐘が鳴るなり」のように、
A→Bへの「論理」をすこし脱臼させるような句って近世にもあったのでしょうか?
最後に「法隆寺」が出てくるのも、似たような感じを受けます。

うーんわかりません。詳しい方メールください。ただ一点だけ、質問の本筋からはずれた話をすると、この句は論理を脱臼させた(因果関係をはずした)というよりむしろ、連句や反歌(長歌のあとに添える要約短歌)の発想と重なるようにわたしの目には映ります。というのもこの句って、

発句 柿くへば唐紅の日暮哉
脇  鐘が鳴るなり斑鳩の寺

というふうに、A「柿くへば」とB「鐘が鳴るなり」とを発句と脇の関係に直せるんですよ。発句の言外の余情を継いで、打ち添えるように脇が付き、同一の時と所を共有している。で、AとBの当意即妙の呼吸からして、おそらく漱石の〈鐘つけば銀杏ちるなり建長寺〉に唱和して子規が「柿くへば」と詠んだ瞬間、ぱっと脇が付いちゃったんだろうと思います(もちろん推敲は必要でしょうけど)。実践の現場でしばしば起こるこうした「句意の圧縮」が「論理の脱臼」と似た外見をもつことは、俳句だけと付き合っていると気づきにくいかもしれません。

反歌といえば、小池純代に白楽天「白羽扇」を抄訳した「梅雨の夜に詠める長歌ならびに反歌一首」という離れ業の一品があります。

盛夏不銷雪
終年無盡風
引秋生手裏
藏月入懷中

なつくさの かりそめの野に 消ゆるなき 雪ふるごとく
ひさかたの そらの果たてに 尽くるなく 風ふくごとく
手のなかに 鳴らすつかのま かそかなる 秋のごとしも
むねの火を ほのとあふりて ありあけの 月のごとしも
わがはねあふぎ

なつくさのそらの果たてにかそかなる月のごとしもわが羽扇


この反歌、長歌の各行を斜め抜きしています。句意の圧縮方法としてはハイカイザシオンに通じますが、圧縮しているように見えないところがすごいです。