2019-08-12

俳句は本当に575なのか




斑猫に花の柩車のある暮らし  夜景

ニース近現代美術館の屋上から眺めた旧市街。ものすごく怖かった。どうやら高所恐怖症の気があるらしい。



「俳句は本当に575なのか」という問いがついさっき頭に浮かんだ。

そして答えは即答で「NO」だった。

575の俳句を作りながらも、それ以外の音数の可能性を無意識に探すというのは、自分のやっていることの明証性を絶えず疑うという意味でとても普通のことだ。少なくとも自分はそんな風に作業している。

もっと素朴に言っても、575の以外の音数もありうるというのは容易に想像がつく。例えば374や594はありだろうし、連句や都々逸などの文節を考えると他にもパターンがありそうだ。また音数は語彙の響きとも関係してくるから、ある句にだけ適応されるたった一回の正解だってあるだろう。もちろんこれは、俳句らしさを失うことなく、という前提で書いている。575に長所があるとすれば、それはリズム感が優れていなくてもなんとなく句が仕上がるといった点だろうか。

現在に残る型というのは単なる洗練では決してあり得ず、「いくつかの観点からみて理(利)に叶っているから」といったたぐいの「感性の粗さ」をも含んでいる。そしてその理(利)へと至る過程では、形式化されない、手間のかかる、たった一回あるかもしれない美がごっそり淘汰されている。