2019-08-20

アプリケーションとしての短歌





最近、物知りの知人が杉﨑恒夫を語る流れで、80年代のプレ平成歌壇に登場した〈歌壇外の要素〉を身につけた歌人の話をしてくれたんですよね。

で、井辻朱美、林あまり、高柳蕗子、仙波龍英、うんぬんと話を聞くうちにふと、彼らと俵万智の大きな違いってなんだろうと思った。

おそらくそれは、歌人じゃなくても短歌を書いていいんだって全国の若者に思わせたことじゃないか。少なくとも私は『サラダ記念日』を読んで、実際に書くことはなかったけど、そう気づいた。片や上述の作家たちは言葉遣いがしたたかで、個性も強いから、文学に興味がない限り「自分もやってみよう」といった気分にはならないと思う。

あと『サラダ記念日』の歌が凄いのは、まるで言葉を57577のアプリに流し込んだような簡便性を有していたこと。いまはみんな気軽にスマートフォンで写真を撮ったり、音や絵をデザインしたりするけれど、俵は〈アプリケーションとしての短歌〉を誰よりもはっきりと実演していた。

もちろん57577に流し込むだけで技法が皆無だったら短歌史に影響をおよぼす本にはならず、その点、国語の先生だった俵は詩歌ならではの言い回しや語順、比喩のパターンなど、初心者が知らないことをわかりやすく作品に組み込んでくれていて、あ、こんな風に書いたら短歌らしくなるのね、ということがあの一冊で一通り学べた。つまり編集機能のサンプルもいっぱいついたアプリだったわけです。

以上。最新号の『ねむらない樹』にも、別の視点から俵万智のことを書いています。