2020-02-01

反古をどう綴じるか





LEETERS第18回「物語と地平線」の後半に物語について思うところを書いたのですが、それに対してとある方が

物書(かき)て扇引(ひき)さく余波(なごり)哉  芭蕉

の句を返してくれて、あ、と思いました。確かにこの句は原義を超えたところで、書くことについてわたしの思い描く世界を代弁しています。

人生というのは根本的に反古ですが、この反古をどういった糸(接続詞)で綴じるか、あるいは綴じないままにしておくかというのはわたしの好きな主題らしく、たしか第14回「文と不死」の後半でもこの問題に触れた気がするので、もし暇だよって方がいたらお読みいただけると嬉しいです。

ところで以前、昔の日記では紙の表に日々の公然たるできごとを漢字で書き、その裏にあたる部分に補遺や和歌なんかを仮名で書いていたという話を聞いて、へえ、紙の裏表でふたつの世界を同時進行させるなんて面白いなあと思ったことがありました。つまりこれ、裏書部分が見せ消ちの反古になっているわけですよね。こうやって表と裏とに書き分けると、ものごとのつじつまを仮構したがる理性の狡智を回避したり、紙の表に滲み出ようとする裏の声を現象させたりできる。なかなか画期的な書記法だなと思います。