2020-02-03

読み書きのできるわたし





わたしは、自分が日本語を読み書きしているといういまの状態を、こんなに長いあいだ生きてきても当たり前だとは全然思えないんですよね。それどころかほぼ毎日、自分が読み書きしていることに感動して、義務教育に感謝しているくらいで。

人生を思い返すと、義務教育が存在しなければ、いまみたいに文字を扱えるようには絶対にならなかった。また浮世におけるもろもろの困難に見舞われたときも、文字が読めたから乗り越えられたと信じているんです。

と書いてふと思ったんですが、わたしが近年まで俳句に興味がなかったのって、中学生のとき山口誓子の〈学問のさびしさに堪へ炭をつぐ〉という句を国語便覧で読んで「はあ?」とショックを受けた体験(これ前にも書いた話でした)が尾を引いていたような気がします。当時のわたしには学問できる境遇にいながら「さびしい」と歌ってしまえる不用意さが信じられなかったし、知識人がこんなナイーヴな句を書く(しかも便覧に掲載される)なんてたまんないな、と頭を抱えてしまったのでした。

そんなわけで(ってどんなわけだ?)、こんな風に日記を書いていても、読み書きできなかったかもしれない自分の姿がちらついて、ほんのちょっと切ない。そのくらいわたしは、自分が文字を読み書きできる事実に、いまでも毎日心を驚かされているんです。

トナカイの翼よあれがドヤの灯だ  夜景