2020-03-24

聞くことから始める





今日もアパートの階段を6往復しました。なんだかSFみたいな暮らしです。

* * *

往復書簡「LETTERS」更新。第22回は「解きほぐしを支えるもの」です。太極拳のレッスン、気を「聞く」という表現、ただ世界に耳を傾け意識を自分の外に置くこと、織り合わせと解きほぐし、ベケットの『伴侶』、無限者の物語、などなど。上はこちら、下はこちらからどうぞ。

アイデンティティを保証する「私」ってふしぎなものですよね。「思う=思惟」と「在る=実在」との間のずれを「私」という名の「思惟の超越論的主体X」(カント)によって隠蔽してしまうようなやり方って、たぶんベケットは大嫌いだと思うんですよ。

カントは「もしも我々が自己に関する統一的表象をもつに及ばないのであれば、『私』を纒わぬ『X』は統一を欠いたさまざまな自己に陥るだろう」と書きましたが、ベケットは『伴侶』において、もはや統一的主体としての体裁を保つことのできない瀕死の老人を登場させ、この老人に備わるさまざまな能力に名前をつけて、それぞれ別の自己として扱ってみせました。で、ここで見事なのが、それらを統一を欠いたてんでばらばらの自己のままにはせず、「声の聞き手」として一つに繋いでみせたところです。

一切を「思う」ことからではなく「聞く」ことから始めてみるという、このなにげないことを、ここまで考え抜いて構造化した小説って見たことがありません。

マトリョーシカ分かちて終(つひ)に現はるる虚(うろ)をもたない小(ち)さき人形  松岡秀明