2019-03-23

言葉の正しさ



今週の「土曜日の読書」は多和田葉子『カタコトのうわごと』から母語の外で俳句を書くことについて述べました。この本、エッセイ集ということになっていますが掌編も入っていて、それがすごく面白いです(著者は掌編じゃないよ!と言うかもですが)。

さて。俗に「言葉を正しく使う」というときの「正しさ」には、それが妥当である局面と、恐ろしく貧しい意味のときがあります。「正しさ」と言われるものが伝統という柔らかな衣をまとった権力にすぎないことは実に多く、その手のものの考え方と出くわすたびに私は「こんな黒くてごつい茶碗があるかいな!」「瓦職人がひねった茶碗が美味いんか!」と初めは度肝を抜いたであろう楽焼に強く思いを馳せるんですよ。まじで。

〈言葉を素材としたものづくり〉においては、その使い方にタブーはない。完全に自由。で、その自由を保持するためには反権力・反権威以外のスタンスはない。ブログのような場所で自分の主たる行動原理を述べたりはしないけど(野暮を通り越して滑稽だから)、小さなことを書くなら(言葉についての)所属を持たないとかそういうことね。それにしても今日はいい天気だ。

タイプミスだらけの世界を創った風光る
小津夜景