抽斗堂no.9は狂った目覚まし時計。非常に小さく、電池は単5です。今週の「土曜日の読書」はアイザック・ウォルトン『釣魚大全』から瞑想について書いたのですが、その冒頭にこの時計と出会った経緯が出てきます。
購入して半年くらいは、居間のあちこちに狂った目覚まし時計を飾って生活していたんです。でもあるとき夫に「あのさあ、これ全部、僕の見えないところにやってくれない? 頭が混乱して生活しづらいんだけど」と切り出され、あ、そうなのか……と恐縮して抽斗の中にしまった。切ない思い出です。
『釣魚大全』に戻ると、初版本の表紙には「使徒ペテロは、私は漁に行くと言った。彼らは、私たちも一緒に行こうと答えた(ヨハネ福音書第23章3節)」という引用がありまして、ここにもまた釣魚に対する口撃と戦うウォルトンの強い意志が現れています。ちなみに序文はこんな感じ。本文のような素朴さは皆無です。
購入して半年くらいは、居間のあちこちに狂った目覚まし時計を飾って生活していたんです。でもあるとき夫に「あのさあ、これ全部、僕の見えないところにやってくれない? 頭が混乱して生活しづらいんだけど」と切り出され、あ、そうなのか……と恐縮して抽斗の中にしまった。切ない思い出です。
『釣魚大全』に戻ると、初版本の表紙には「使徒ペテロは、私は漁に行くと言った。彼らは、私たちも一緒に行こうと答えた(ヨハネ福音書第23章3節)」という引用がありまして、ここにもまた釣魚に対する口撃と戦うウォルトンの強い意志が現れています。ちなみに序文はこんな感じ。本文のような素朴さは皆無です。
この本を書くにあたって、わたしは釣魚の楽しみを、自分の人生の快楽だと考え、そのうえで、読者諸氏が退屈したりすることのないような配慮をしております。そのほとんどは、無邪気で無害な遊戯とおなじことなので、もしそれを許しがたいと非難されるひとは、あまりに厳格で気むずかしい人格の持ち主というべきで、そういうひとは、公平に事物の善悪を判断できないのだ、というしかないでしょう。(…)わたしについていえば、自分がいつでも真面目になれる人間だということは、一般によく知られておりますので案じてはいないのですが、この著作は、ひとくちに申せば、わたしの気分の所産なのであります。(森秀人訳)