2024-12-28

そんなこと、できるはずもないけど。





巴里雑詠 其一  成島柳北

十載夢飛巴里城 
城中今日試閑行

画楼涵影淪渏水

士女如花簇晩晴

パリあれこれ その1  成島柳北

十年も夢見てた
パリの街にとんできた。

今日はきままに
パリを歩いてみることにした。

絵のような建物が
水に映る
澄み切った水は静かで
影は深く沈んでいる

花みたいな人の群れ
紳士も淑女も
夕映えの空の下
きらびやかに集っている

柳北の詩は香り高い。この詩もシンプルながら、描かれる景色は鮮やか。で、雰囲気がある。「画楼」はセーヌ両岸の建物群。「画楼涵影淪渏水」はその影が水面深くに沈んでいるように見えたのだろう。

十年も夢見てた、との冒頭には少し笑ってしまった。だって成島柳北がパリにやってきたのは明治五年、1872年のことだ。長らく夢見てたというわりに、この詩には当時の政情の影がない。静かな夕暮れの光と、人々のざわめき、澄んだ水に映る影、それだけ。でも、もちろん、それでいい。光だろうと、影だろうと、旅人の目に映るのはいつだって物事の外側。それは今も昔も変わらないし、変えられるはずもない。ただ旅人の目にだけ見える風景があるということも確かで、それはかけがえのないものだと思う。

それに、たとえそこに住んでいたって内側が見えているとは限らない。内側を見たいのなら、自分の想像力で捕まえにいくしかない。しかも捕まえた瞬間、それは形を歪める。見えないものをどう見るかはいつだって見る側の責任だ。

これは詩を訳すときにも言えることかもしれない。たとえば成島柳北の詩を訳すのは絵の構図を決めていくような作業だ。どこに色を置くのか、どこを空白にするのか。そうやって詩の形をつくり上げる。一方で、菅原道真の詩ならば言葉の内側を追いかけていく。それは、目をとじたまま手触りのある何かを掴みにいくような、奇妙で少し怖い感覚だ。出来上がりが壊れていたってかまわない。それが書き手のいる場所に寄り添った結果ならば。

書き手の立ち位置に立って、同じ景色を見て、同じ風を感じて、その感覚を言葉に移し替える。そんなこと、できるはずもないけど、でも翻訳が目指すのはそういう地平じゃないだろうか。人はひとりひとり、立っている場所が違う。そこを、そうか、と頷くこと。

2024-12-26

白居易の「書斎の三つの友」の詩を読む





『いつかたこぶねになる日』のあとがきで引用した「詩友独留真死友(詩友は独り留まる真の死友)」。この詩を現代語訳してみました。原文はこちらで確認できます。細かな点は『菅家後集』を確認していただけると幸いです。

白居易の「書斎の三つの友」の詩を読む 菅原道真

白居易の『洛中集』十巻
そこに「書斎の三つの友」という詩がある
一つの友は琴、もう一つの友は酒
私は酒と琴についてあまり詳しくない
でも、詳しくなくても、なんとなくはわかっている
わからないと言いつつ、疑問が湧かないくらいには
たとえば酒は麹を水に溶いてつくるし
琴はといえば桐の木に糸を張ってつくる
でもわざわざ自分で一曲弾きたくなることはないし
目いっぱい飲んだからといって楽しくなるともかぎらない
つまりそこまで親交がないってのが正直なところ
だからさよなら いまここで 丁寧に別れを告げるよ
するとね 詩だけが残る それが死ぬまで連れ添う本物の友
わが家は先祖代々ずっと詩を作りつづけてきたけれど
それが世間で広く歌われるのはどこか憂鬱
私は声に出さず ただ心に思うだけにしてる
言うにはばかることが多く 新しい発想も浮かばないから
口をついで出るのは誰かの古い詩ばかり
その古い詩をどこでそっと抜き出すかといえば
柱三間の 白い萱と茨を葺いた貧しい公舎
敷地は狭いものの南北の向きだけは定まっている
建物は粗末ながら戸も窓もなんとか整っている
それに運良く北向きの書斎があって
たまに詩がやって来てはそっと寄り添ってくれる
とはいえ酒も琴もない 何か代わりになるものはないか
見回すと、そこにいたのが燕の雛と雀の子
燕と雀 種は違えど同じように生きている
親鳥は子を護り、しょっちゅう助け合っている
ここでは焼香や散華も行われるのだけど
念仏や読経のときにひょっこりあらわれ
嫌がりもしなければ飽きもしない
なんの妨げにもならないし下心もなくて
彼らはぴいぴい、ちゅんちゅんと話し合いながら
わずかな虫や穀粒をついばんで、飢えることもなく過ごしている
彼らは小さな鳥 私は儒者を名乗っているけど
きっと彼らのほうが ずっと慈悲にあふれてる
右少弁が地方官を務めたとか
式部丞が新たに五位をあたえられたとか
蔵人は帝のそばにいたがすぐに殿上を去ったとか
文章得業生はまだ部屋にこもって勉強を続けているとか
そんな世間の折 私はといえば勅使に追いたてられ
父と子が一度に五つの地に引き裂かれてしまった
言葉にならない痛みが血の涙となってあふれ
俯いたり仰いだりして天の神地の神にいのる
だが東へ西へと雲はただ遠く流れるばかり
春はのどかで、二月、三月と日が長くなるけど
関所は幾重にも閉ざされ、便りは絶え
独り寝はつらく、夢もめったに見なくなった
進めば進むほど山や川は遠ざかり
道中を進むほど景色は薄暗く変わっていく
左遷の地で、子らはいったいだれと食事をするのか
秋風が吹くころまで生き延びても着るものもないだろう
かつての三友——琴・酒・詩——は一生の楽しみだったけど
いまの三友——燕・雀・詩——は一生の悲しみになった
昔と今は違う 今は昔と違う
楽しみも、悲しみも、すべては心の向きしだいなんだ

2024-12-24

くじに当たる





ほんの3日前、繁華街でまないたを買ったらクリスマス抽選くじを1枚もらった。その場でくじを引いたらなんと1等が当たった。7000分の1の確率だそう。1等の景品はハンス・ウェグナーのYチェア、ビーチ材ソープ仕上げである。さっそく届いたので部屋にあるオーク材のYチェアと並べて撮影。こんなことってあるんですね…。

まないたを買ったそれだけなのに今くじの半券にぎりしめてる
確率の冥き渦中にわれ置かれ七千に一の奇跡をつかむ
「一等が当たりました」と渡されしカードの裏のイエスの言葉
無作為の連鎖の果てにここに在りオークと並ぶ新らしき椅子
まさかねと口にしてみるそのたびにビーチの椅子はそこにたたずむ

2024-12-20

小津夜景×永井玲衣×穂村弘トークイベントのお知らせ



年が明けたら東京行き。トークイベントに参加するためである。聞けば開始時刻がライヴみたいに遅い。思わず三省堂書店の営業時間を調べた。二十時まで、だった。なるほど。つまり、営業終了後にイベントが始まるってことか。

イベントのタイトルを見ると「言葉の魔術師」とあり、ええっとおののく。おののきつつ、でもこういうストレートなネーミングは逆にありがたいのかもしれない、と考え直す。いやいやいやと否定しやすいし、文句もつけやすい。つまり話が初手から、ずん、と前へ進む。明確な的があるほうが、ボールも投げやすいってものだ。


2024-12-16

まだ何も飾らない日



エスプレッソマシンをあつかう手つきが、少しこなれてきた。小さな台所も急に落ち着いて、なんだか背が伸びたみたいに感じる。マシンの上の壁には、空っぽのフレームが四つ並んでいる。新しい道具に合わせるのだ。

パソコンをひらき、壁に飾る写真を探す。とりあえず二枚選んだ。一枚は駅の小屋。錆びたトタン屋根、ひび割れたコンクリート、炎帝に射抜かれた影。そこに漂うのは、ひと昔前の、田舎の夏のにおいである。もう一枚は海。ひろくて遠い。どちらも、ふっと奥に引き込まれる感じがする。写真の奥へ、奥へと入っていけそうな気がする。

蒸気上げ正確無比なマシン鳴る抽出時間十二秒ぴたり
濃密な一滴ごとの正確さ小宇宙生む蒸気の技術
ちょっと待てエスプレッソがそう言ったそんな急ぐな人生だってさ

2024-12-14

向き不向き





エスプレッソマシンは私には向いていなかったかもしれない。カフェだと、シュッ、ガッチャン、ポタポタ、シャッという音とともに、コーヒーがすぐ出てくるが、家ではそうはいかないのだ。豆量、温度、圧力、時間。考えなくちゃいけないことが多すぎる。マシンに手をかけているうちに、あっという間に時間が過ぎる。自分でお湯を沸かして、豆を挽いた方がずっと早い。

新連載の原稿を送った。書いては直し、書いては捨てた。迷いながら書いた。こんなふうでいいのだろうかと考えながら、でも、書き終わった。反故がいっぱいでた。短歌もまぎれている。

金盤の月をひとつぶ頬張れば甘さ苦さのあはひに落ちる
日は流れ影は薄れてわたくしの齒牙に残れる甘さの破片
誰かへのおみやげだったはずなのにわたしがここで食べている午後

マカロンの、レモンクリームの、ほろ苦かった思い出から生まれた歌。類想があるかもしれないな、とぼんやり考える。

2024-12-13

句集『花と夜盗』増刷の知らせ





あいかわらず「すばる」にエッセイを書いている。そうたしかに書いている。でも送稿したあとはなにもおぼえていない。いま発売中の号では今福龍太『霧のコミューン』の書評も載っている。今福さんの本はずっと読んできたので、恐れつつ書いた。

句集『花と夜盗』増刷の知らせが来た。それで誤字脱字のチェックをしていら、この本、なんでこんなに肌に合うんだろうと次第に不思議な気分になってきた。本当にびっくりである。エッセイに関してはそんな風に思ったことがない。いつも違う、こうじゃない、と困りはてているのに。

新しいエスプレッソマシンが届いた。デロンギのラ・スペシャリスタ。あたたかい飲み物を淹れるという行為はわたしにとって時間に句読点を打つようなもの。とても大事な気分転換である。とはいえ、いかんせん句読点が多すぎるのがこのところ深刻な問題と化していた。台所でうろうろする時間が書く時間を侵食している。で、半分自動化せねば、と。これで改善されるかどうかは未知数だけど。

2024-12-11

近況報告





写真は先週のル・アーヴル。凍てついています。

初夏からずっとごろごろしていたのですがブログを再開しようと思っています。ブログだけでなく新刊の原稿も書き始めています。本当だったら今頃『いつかたこぶねになる日』の続編が出ているはずが、のっそり起き上がったのが先月中ごろで、恐る恐る動き回ってみると通常運転に戻ってもだいじょうぶそうなので。

あと来年一月一日から新しい連載がはじまるのですがその原稿も書いていなかったんです。で、やらないとなあ、やらないとなあと焦りながら、ここ一ヶ月くらい熊みたいに家の中をうろうろしていたのがやっと今朝から、そうまさに今朝ですよ、勢いよく文字がほとばしりだしてほっとしているところ。それでブログを書く余裕も生まれた次第。原稿を書くと反故がいっぱい出るので、それをこのブログにのっけていけたらいいなと思っています。

2024-09-28

机に出しっぱなしだったCD





本棚の整理をしたあと、しばらく机の上に出しっぱなしだったCD。全くなんの意図もありません。とりあえずブログを更新するために写真を撮りました。

この中で最も古いのは高三の冬に買ったKEITH JARRETT TRIO "THE CURE"で、一番最近のものは遊佐未森『潮騒』。Orchestra a Plettro di Taormina "Mandolini a Taormina"は「タオルミーナ民謡ってどんな感じだろう?」と思ってシチリア島の鄙びた土産物屋で購入。聞いてみたらトレモロ奏法が光の粒そのまんま。そうか、この世ってこんなにも夢だったんだな、と涙した。

2024-08-25

日暮れの散歩



夕方、かっこいい楽器にまたがったパフォーマーと出くわす。ひとしきり演奏したあとは、車体のハンドルを握ってなめらかに去っていった。


動画はこちら

2024-06-25

帯状疱疹とトークイベントと私





7月18日のトークイベントは盛況のうちに終わりました。ご来場、ご視聴の皆様ありがとうございました。吉村萬壱さんは物腰が柔らかくて優しくて、だらりんと力の抜けた人(あるいは一種の脱力によって自らが抱えている浅からぬ業をいなしているのであろうか?)。なんか世間的な雰囲気が全然なくて、一緒にいると子供に戻った気分になれる、そんな人でした。結論としては、また会いたい、絶対会うんだって気持ち。

この春以降『カモメの日の読書』が4刷、新潮文庫版の『いつかたこぶねになる日』が2刷になったのですが、ここへ来て『ロゴスと巻貝』も増刷されることが決まりました。わーい。どうもありがとうございます。

それから帯状疱疹のほうは、後遺症が残ってペインクリニックに通う羽目になっています。ブログを書いていなかった理由もひとえにその痛みゆえでして、トークイベントの前日などは朝から悶絶し「人前で話すなんて無理だ」と心底思っていたのです。ところが注射を一発打たれたら、怖いですねえ、痛みがすっと消えてしまいました。昨日は2回目の注射を打ったんですが、自覚症状としてはもうかなりいい感じ。

Xの書き込みを遡りますと(いや、わざわざ遡らずとも伊藤亜紗、奥野克巳、吉村萬壱共著『ひび割れた日常――人類学・文学・美学から考える』所収のエッセイ「帯状疱疹とウイルスと私」に状況がつまびらかですが)、吉村さんは帯状疱疹の後遺症でペインクリニックに通った際、なんとお腹と背中に5か所(!)も注射をされたとか。なんとも気の毒。わたしは毎回1か所だけですんでいます。イベントの日は控え室で七転八倒な経験談をお伺いして「あたしは不幸中の幸いだったんだわ」と震えた次第です。

2024-06-12

古典を読む人生とは





帯状疱疹の病状はまあまあ。腫れは引いたけれど痛みは残っているので、だいたいの時間を横になっています。そうすれば痛みが和らぐので。

最新号の『すばる』は「古典のチカラ」特集。わたしもエッセイを寄稿しています。古典といってもカノンの話はしたくないので、「昔の作品=なんでも古典とみなす」と断った上で思っていることを書きました。

わたしはナイーヴな啓蒙にはうんざりする質だし、古典を読む行為を教養に結びつけたくもないので、今回のエッセイも古典を語ることで生じかねないある種の「力」を無効化するために断章形式で対処したのですが、それでも古典を読むコツをきかれたら「できるだけ多くの先行研究を読むこと」と答えるしかないと思っています。古典を読むことと学ぶこととは切り離せない、自分の勝手な想像だけで読もうとしたところで古典の肉は噛みきれないし、一人の人間が考えられることなどたかが知れている、わたしたちは解釈のバトンを受け継いでようやく今ここに至っているのだといった認識は前提として必要だろう、と。

あと古典を読むとは「テキストを読了すること」に価値を置かない人生を送るということでもあります。つまり古典と付き合うことは必ずや生き方の次元にかかわる。生き方そのものが変わる。この世の中が「本を読み終えた」という台詞を口にする人間だらけになったのって古い話じゃないですよね。なにしろ印刷技術と出版流通システムの普及なくして読書を娯楽にするなんてことは不可能なわけですから。本が貴重だった時代は誰しも同じ本をくりかえし真剣に読んでいた。そういった意味で、読書の歴史は読者の生き方の歴史でもあるでしょう。

2024-05-24

題名のない日常





東京でのトークイベントが終わり、さあようやく原稿にとりかかれるぞと思った矢先にまたもや体調不良。今度は帯状疱疹だ。この病気は身体の片側のみに症状があらわれるらしく、わたしも最初はそうだったのだけど、疱疹の帯がじわじわと成長して今朝は半身の境界を突破していた。痛すぎて動けない。でも食べないと薬を服用できないので、仕方なしにベッドから転がり出、床に這いつくばって朝食を摂っていたところへ友達から「最近どう?」とLINEが。すかさず患部の写真を送ってあれこれ言い合ったら気力が充填されたので鍼灸院に出かけた。鍼灸師さんが鍼の刺さっている患部の写真を撮ってくれたので、それも友達に送った。

早めにお昼を食べ、三時間くらい眠って、いまはゲラ直しのために起きたところ。背中と胃に激痛が走る。そうだ、最新刊の『ユリイカ』に寄稿しています。散歩特集とのことだったのでこれ幸いと、ふだんどおりぶらぶらと綴りました。

2024-05-21

吉村萬壱×小津夜景トークイベント「本の書き手が潜る世界」





先日の下西さん、山本さんに続く『ロゴスと巻貝』刊行記念第3弾として、6月18日(火)京都の恵文社一乗寺店にて小説家の吉村萬壱さんとのトークイベント「本の書き手が潜る世界」が開催されます。二人で本を書くことや読むことについて自由に語り合う会で、オンラインでもご視聴可能です。みなさまのご来場・ご視聴をお待ちしております。

■日時:2024年6月18日(火) 18:30開場 / 19:00開始(20:30頃終了予定)
■会場:恵文社一乗寺店COTTAGE
■定員:30名
■料金:1,500円
■会場ご参加の方はこちらのご予約フォーム、もしくはお電話(075-711-5919)、店頭にてご予約ください。オンライン配信のお申し込みはこちらのページからお願いします(オンライン配信の受付は5/31の23:59締切です)。

その他さいきんの活動をメモ。

●三省堂書店 神保町本店2周年記念「作家のプロフと愛読書展」に参加しています。会期は5月1日から6月30日まで。
●梅田の蔦屋書店「はじめての詩歌」フェアに参加しています。会期は5月13日から7月7日まで。選書理由を掲載した無料リーフレット配布中。
●『BRUTUS』2024年6月1日号のアンケートに答えました。質問は「あなたにとっての忘れられない一句は?」で、「い。そこに薄明し熟れない一個の梨/崎原風子」と「コーヒー沸く香りの朝はハツトハウスの青さで/古屋翠渓」のどっちにするか迷って、結局コーヒーの句にしました。理由はシンプル。今の日本で古屋翠渓の句集を折りにふれて読んでいるの、たぶん私だけだろうなと思ったから。風子の方はまだ読者がいますしね。私がことあるごとに古屋翠渓を推しているのを知る人たちは「この人ほんとに好きなんだな」って思うかもしれません。けど、これ、ただ好きってわけじゃなくて、研究目的以外で読む人がほとんどいないハワイ日系移民の俳句に少しでも光を当てたいからというのも実は大きいんです。

ところで、風子はアルゼンチン、翠渓はハワイと生きた国は違えど、移民と母語との関係において両者は同じ現実に直面していたと思います。それはどんな現実かというと「移民にとって母語で書くことは政治的な行為である」ということ。たとえ本人にそのつもりがなくても、社会の側はそう見る。母語というのはアイデンティティの砦だから、それを使うことは「同化に抗う自己」を再確認する作業にほかならないわけです。風子や翠渓の作風からすると外国語で書く選択肢も可能性としてありえそうですが、彼らはそうしなかった。そこには「同化に抗う自己」の姿が絡んでいたでしょうし、さらには彼らが「書く」とき、日本語それ自体の中に向き合うべき重要な課題を見出していたのだろうとも想像します。

さらに余談。わたしは「小さなときから自分は移民みたいだったなあ」と思うことがあります。これは引っ越しが多かったとか、そういうのとは無関係の話で、なんというか、他人には伝わらない超私的な言語世界が頭の中に存在し、それを言おうとするたび大人に馬鹿にされたり、胡散臭く思われたりするのを感じていたという意味なんですけれど。と書いて今、いきなり気づいたんですが、そもそも子どもというのはわたしに限らずみんながみんな、本人が望んだわけでもなくこの世界に流れついた民であり、十数年かけて社会に同化していく任務を課せられているのでした。

2024-05-17

千の漣より一片の銀をつまむ





おととい、もう立ち直れないかもってほどショックなことがあった。でもそのままでいるわけにはいかないから、どうにか元気出さなきゃといろいろ考えて、考えて、しかしまるでうまくいかず心は死んだままだった。ああもうだめかもしれない。絶望に身を委ねつつ、なんとなくお菓子を口に運んだ。するとなんてことだろう、心がすっと癒えてしまった。てか、むしろ普段より元気になり、歌まで歌い出していた。人間をよみがえらせるものはロゴスではなく甘みである。

* * *

鰹魚膾 野村篁園

鰹魚四月出房洋 価躍燕都結客場
翠鬣脱罾凝海色 紅膚落俎砕霞光
銀盤巧畳千層波 玉箸軽挑一片霜
莫道金齑資雋味 不如蘆菔雪生香

かつおの刺身 野村篁園

かつおは四月 安房の海にやってくる
競りの声が響き 江戸の魚河岸が賑わっている
網からはずされた翠の鰭はいまだ海の色を宿し
俎板でさばかれた紅い身は朝ぼらけの光を放ち
銀の大皿に巧みに造った重なる千のさざなみの
その一切れのしろがねを象牙の箸で軽やかにつまむ
言うな 和え物がかつおの旨さを一層引き立てるなどと
雪のようなおろし大根の風味にはかなわないのだから

野村篁園は江戸時代後期の儒者、漢詩人。翠と紅、凝と砕、海と霞、色と光、銀と玉、千層と一片など非常に整った作品です。タイトルの「膾」は刺身。「価躍」は価格が高騰する。「砕霞光」は深く透き通るようなかつおの赤身をあけぼのの光のスペクトルになぞらえた表現。またかつおの刺身の作り方で、カツオの腹身に皮を残した刺身の食べ方を銀皮造りと呼び、「霜」はその銀色を指しています。「蘆菔」は大根。それから「金齑」とはなんぞやと思い百度百科でググったところ「細かく刻んだ美しい食材」の意で、例文として梅尭臣作の魦魚の皮付き刺身についての詩が出ていました。さらに調べると朱新林「文化の交差点」の魚・膾・刺身の回にこんな記述を見つけました。

刺身が全国で流行するにつれて、その調味料と調理法にも絶えず改善が加えられた。南北朝時代に至ると、有名な「金齏玉膾」が登場する。これは刺身を食べる時のたれの1種で、中国古代の刺身文化の中でよく称えられる。北魏の賈思勰は、この「金齏玉膾」の作り方を『齊民要術』に記載しており、特にその第8巻の「八和齏」の一節で金齏の作り方を詳しく紹介している。分かりやすく言えば、「八和齏」は一種の調味料で、にんにく、しょうが、みかん、梅干、とうもろこし、炊いたうるち米、塩、みその8種類の材料から作られ、魚膾につけるためのたれである。これは、現在日本の刺身用のたれである醤油とわさびに相当する。このたれはその後隋の煬帝が好み、煬帝は「金齏玉膾とは東南の美味である」と言っている。煬帝は刺身が格別に好きだったことが見て取れる。たれのほか、さまざまな生野菜と和える食べ方もあり、この食べ方ではさらに色彩や造形上の視覚的な美しさが求められた。

現在の日本でも、かつおの刺身の薬味は葱、大葉、みょうが、にんにく、生姜あたりが主流です。しかしながら篁園が上の詩でひそかに主張したがっているのはたぶんラストの一句、すなわち「おろし大根推し」で、これはさぞかし小粋な江戸趣味なのだろうと想像できます。確かに雪と見紛うおろし大根は清涼な美の極み、辛みと甘みが入り交じるところも魅力的ですよね。

2024-05-14

手離すたび本は面白くなる





先週末は2夜連続のトークイベント。総勢約130名の方にご来場およびご視聴いただいたとのことで皆様ありがとうございました。

5月に入ってから体調を崩してしまい、今回の東京滞在は取材1社以外、予定をすべてキャンセルしてイベントにのぞむことに。関係者各位との顔合わせなし、書店回りなし、招待先への訪問なしという状態だったので、無事終わってほっとしている。

イベントではいろんな話が出たけれど、一番苦労したのが本とわたしとの距離感について説明することだった。そんな中、下西風澄さんが「自分が良しとするわけではない作品であっても引用する」という私の態度に共感してくださったことに安堵し、また山本貴光さんからは「なぜ本を愛しすぎてはいけないと思うのか?」という恐ろしく直球の質問を受け、イベント終了後もその答えをずっと考えていた。で、ぼんやり分かってきたのは、本を愛しすぎないというよりむしろ愛するという行為を愛しすぎない、要は煩悩にふりまわされたくないと自分が願っているってこと。わたしは本を自己規定の具にしたくないのだ。砂浜の貝殻を拾うように手に取り、その響きに耳を寄せ、臆せず手から離す。で、この最後、手から離す、という行為に何か大切な秘密が隠されているような気がしている。ひとつの断ち切り・断念の瞬間に、読書の記憶あるいは体験が劇的な変容する予感のようなもの。

もうひとつ「本当のことだけを書きたい。なぜなら本当のことしか面白くないから」という話。こっちの理由はシンプルで、自分に残された時間がそれほど長くないと思っているからだ。本当とは何かを探求することがもはや日々の課題といってもいい。

2024-04-20

小津夜景×山本貴光トークイベント「本という地図、読むことと書くこと」ならびに食卓の和装本





連続トークイベント第2弾の情報です。5/12(日)19時より、東京は下北沢にある本屋B&Bで『ロゴスと巻貝』刊行記念イベントが開催されます。ゲストには文筆家・ゲーム作家の山本貴光さんが登場。当日は『ロゴスと巻貝』を軸として「本という地図、読むことと書くこと」をテーマに語らいます。サイン会もあるそうです。チケットの購入はこちらからどうぞ。みなさまのご参加を心よりお待ちしております。

話は変わって上の画像ですが、これ『ロゴスと巻き貝』刊行記念として巻いた連句(こちら)なんです。佐々木未来さんのドローイングを佐藤りえさんが折本に仕立て、拙宅へ送ってくれました。で、どんなふうに写真を撮れば素敵かしらとしばらく考えていて本日あっと閃いた。食卓っぽくするのがいいんじゃないかと。


丸帙に入っています。


表まわりの紙はシルクスクリーンプリントのコットンペーパーでドイツ製。たんぽぽの綿毛なのでしょうか。


見返しは後染和紙で、帙の内張は東南アジアの手漉き紙。


完全に和装の技法を用いてほぼ洋紙で仕立てた理由は小津へのオマージュだそうで、まことにかたじけないことです。

2024-04-19

手と手が語らう静かな場所





5/11(土)20時よりtwililightで催されるトークイベント「小津夜景×下西風澄『ロゴスと巻貝』をめぐる風景」は満席になりました。ありがとうございます。ひきつづきオンライン配信のチケットを販売しています。

昨夜、ひさしぶりに『菅家文草』の詩を試訳しました。

碁  菅原道真

手談幽静処 用意興如何
下子声偏小 成都勢幾多
偸閑猶気味 送老不蹉跎
若得逢仙客 樵夫定爛柯

碁  菅原道真

手と手が語らう ひっそりと奥まった場所で
意識を集中する えもいわれぬその愉しさよ
碁石を打つ響きはひとえに小さいけれど
碁盤の目の勢いは都を造るかに賑わっている
仕事の合間をぬって打てば気が晴れるし
老境の日々にあっても心は衰えないまま
もしも仙人が碁を打つところに出くわしたなら
きっと時を忘れる 斧の柄を腐らせた樵のように

だいたいこんな感じ(良案を思いつくたびに推敲する予定)。道真は囲碁を題材とした詩をいくつか書いていますが、この詩は冒頭が素敵。上品な香りをおだやかに放ち、おもむろに弦が鳴り出す瞬間の衝撃に似た静かな幸福感が込み上げてきます。「用意」の読み下しは「意を用いる」で、注意する、気を配るの意。「成都」の読み下しは「都を成す」で碁盤の目を都に見立てていると思われます。「蹉跎」は耄碌する。「爛柯」は爛柯伝説(樵が山中で碁を打つ仙童に遭遇し、夢中になってその対局を見てふと気づいたら斧の柄が腐るほど時がすぎ、村に戻ったら知っている人間はもう誰もいなかった)。

2024-04-13

小津夜景×下西風澄トークイベント『ロゴスと巻貝』をめぐる風景





5/11(土)20時より、東京の三軒茶屋にあるtwililightで『ロゴスと巻貝』刊行記念イベントが開催されます。タイトルは「ロゴスと巻貝をめぐる風景」。ゲストにお迎えするのは哲学者の下西風澄さん。当日は下西さんに『ロゴスと巻貝』をご案内いただいたのち、本書で取り上げた作品を軸に、ジャンルを自由に横断する本との関わり方についてお喋りする予定です。

今回のトークイベントは連続企画で、東京では2回開催されます。場所とお相手はそのつど変わって、もう一人は本ができあがる前からお願いずみの方。で、一ヶ月くらいまえでしょうか、担当編集者のKさんに「小津さん、せっかくの機会ですのでもう一日イベントやりましょう。どなたか話してみたい方はいますか?」と質問され、おずおずと下西さんのお名前を挙げたんです。そしたらなんと先方がお引き受けくださいました。わたしのような不束者のためにお時間を割いていただくことにすごく恐縮しています。あまりに恐縮しすぎて「あの。ええと、前もってオンラインでご挨拶したほうがよくないですか?」とKさんにメールしたら、わたしの弱気を察してくれて、来週ご挨拶することに。

そんなわけで、みなさまのご参加を心よりお待ちしております。チケット購入は下のXのリンクからどうぞ。

2024-04-10

第3回 現代俳句を舌で味わう〜小津夜景『花と夜盗』に寄せて





《info.1》4月8日『カモメの日の読書』が4刷になりました。皆々様に熱く御礼申し上げます。

《info.2》『すばる』5月号の空耳放浪記は「引用のメカニズム」と題して、まつおはせをの一句についてあれこれ空想してみました。

《info.3》松本にあるbooks電線の鳥主催の連続企画「第3回 現代俳句を舌で味わう〜小津夜景『花と夜盗』に寄せて」の日程と内容が決まったとの連絡をいただきました。日時は2024年6月16日(日)12時頃から17時頃まで、会場はゲストハウス東家。今回は「水をわたる夜」を題材とし、「めしつくるひと」木内一樹さんによる料理、権頭真由さんによるピアノと上條淳香さんによる書の即興実演、小林智樹さんによる漢字解説といった演目が繰り広げられます。ざっと5時間に及ぶ盛りだくさんの内容で、参加費は4200円、定員は15名(小津は出演しません)。料理人の木内さんは文章も面白く、お品書を拝読するのが楽しみ。権頭真由さんは寓話的世界観が曲名にまで行き渡った作風で、ライブでは観客が観た夢の内容を書いて渡すと瞬時にその夢を音で紡いでしまうとの噂。書の上條淳香さん、漢字解説の小林智樹さんにもお礼を申し上げます。詳細は画像でどうぞ。

2024-04-05

私たちは今なお歩みを止めない





冊子「書肆侃侃房の海外文学」に書評「私たちは今なお歩みを止めない」を寄稿しています。取り上げたのは高柳聡子著『埃だらけのすももを売ればよい ロシア銀の時代の女性詩人たち』です。企画展風に、じっくりと詩を鑑賞することのできる本でした。

廬を結びて詩境のはずれに在る身としては「女性詩人」という言葉を聞くたびにむず痒い気分になります。けれど「女性」というカテゴライズを外してただ「詩人」と呼べばこの問題が綺麗に片付くかというとそうではない。なぜならわたしたちは、ただの「詩人」として発想すると同時に「女性詩人」という軛の中で書くことの意味を考え抜いてもきたから。つまり「女性詩人」という概念は、そう名指される側からすると「自由と軛とをめぐる省察」の歴史そのものであり、そこには今後も記憶・継承すべき言説がたんまり存在する。「女性詩」という概念の破棄を目指しつつも歴史は忘却しない。概念の彼岸へと、わーいと手ぶらで走っていくのではなく、道中のしかばねに献じる花籠を抱えるのを忘れないようにしたい、そんなふうに思います。

ところで、話は変わって先週のことなんですが、編集者のKさんと喋っていて『源氏物語』の話になったんですよ。で、思わず「わたし、紫式部に私淑してるんです。石山寺まで彼女の参籠した部屋を見にいくくらい。エッセイを書いていて行きづまるたびに彼女のことを考えます。彼女だったらどう書くだろうって」と言ったんです。すると「小津さんから紫式部の話を聞いたのって初めてかも。そんなに好きなんですか」とKさん。「はい。デビュー作の冒頭も『紫式部日記』を物真似しちゃってます。なんの文学的仕掛けでもなく、ただ自分の気分を上げるだけのために」とわたし。そんなわけで、ええと、こんな感じ。

秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。(『紫式部日記』)

ふみしだく歓喜にはいまだ遠いけれど、金星のかたむく土地はうるはしく盛つてゐる。たちこめる霧。うちともる吾亦紅。水にせまる空木のえだぶり。やすらぐ鳥の葉隠れのむれ。眼に見えるものはいつでも優しげだ。鳥は暗い音色で呼ばひあふ。そのかすかなのどぶえが静かな朝の空白にこんなにも息吹を吹き込むものだから、誰もゐないはずの庭は記憶に呼び出されたまれびとで今やおびただしい。(小津夜景「出アバラヤ記」)

2024-04-02

柩となりし船と船とは





『九重』5号掲載の高山れおな「百題稽古 其三のうちの恋」は六百番歌合の題で組題百句を作ってみせるという趣向。これが華やかでありながら軽い。まるで見えない部分に金糸が縫い込まれているかのような、ワインでいうならブルゴーニュかと見せかけてロワール地方の味わいをもつ連作で、それが川のように滔々と流れていきます。

寄絵恋 金地戦闘美少女図襖とはこれか

いわゆる「とはこれか」俳句。この型では冒頭にどんな言葉をもってくるかが見所ですが、いきなり初句七音で「金地戦闘」は超ゴージャス。中八「美少女図襖」の音密度の高さや文節の切れ方もよろしく、いよいよ期待を裏切らない。で、結句は驚きと呆れを含みつつ、すこんと抜く。雅俗の交雑が文句なしの句。

寄鳥恋 川波や夢みよと恋教へ鳥

「恋教へ鳥」(セキレイの古名)の句跨りと体言止めが雅趣たっぷり。初句「川波や」も痺れます。この語のイメージの弱さ、儚さ、ありふれた感じがかえって切なさを煽るんですよ。またこの句の場合は「恋教へ鳥」の印象が浮き出るようにするという意味でも初句は立てない方がいいですよね。川、波、夢、恋、鳥といった月並みな名詞をずらりと並べて優雅に踊らせてみせる技量もたまりません。

ちなみに『九重』5号には高山れおなインタビューも載っています。聞き手は「月刊狂歌」編集部の花野曲。月刊狂歌って…んな阿呆な。まあ冗談企画ですけれども、題詠と俳句の相性についてなど得心する点が数多く、読み応えがありました。

佐藤りえ「恋すてふ 贋作恋十二題」は高山さんの趣向をさらにひねり、詞書にさらに俳句を添えた短歌連作。

漂恋 月の夜の蹴られて水に沈む石 鈴木しづ子
追憶のついぞ変わらぬ水の上補陀落渡海の船を寄せ合う

死の国に旅立つのに、船を寄せ合う。なんというむなしさでしょうか。りえさんは俳句を書くときと短歌を書くときとで人格の現れ方がはっきりと変わる書き手で(これはもちろん詩形の側にその原因がある)、俳句のときは立体デザイナー的な感性が全面に出る。読者としては知的な喜びを感じます。かたや短歌は本音を聞いているような読み心地で、いかなる本音かというと、それは虚しさです。りえさんの短歌はしょっちゅう虚しい。でもこの歌を読むと、その虚しさこそがついぞ変わらない水の上の追憶を輝かせていることがわかります。それぞれが個別の追憶を生きながら、孤絶を抱えながら、遠く流されながら、柩となった船と船とは、それでも触れ合おうとするのです。

寄橋恋 踊り疲れて白夜を帰る橋がない 永井陽子
船形のお菓子を買って帰る宵 橋の嘆きをたしかに聞いた

「嘆きの橋」(ため息橋)といえばヴェネチア。この呼称は、犯罪者が投獄される前に見るヴェネチアの最後の景色がこの橋の上からであるために、彼らが深いため息をつく橋としてバイロンが『チャイルド・ハロルドの巡礼』でBridge of Sighsと呼んだのがその初め。で、それをひっくりかえし「橋が嘆いている」設定にしたのがこの歌。思うにこれは、地元では日没時、この橋の下でゴンドラに乗り、恋人同士が接吻を交わすと永遠の愛が約束されるという言い伝えがあるから。語順を逆さにするだけで、言い伝えに反する恋人たちの運命を見続けてきた橋の呻吟が聞こえてくるというトリックアートが面白い。それにしても舟形のお菓子の霊力ってすごいんだなあ。

2024-03-28

ファンファーレを胸に秘めて





前の日記に書いた冬泉さんの誕生日祝い連句、羊我堂さんが画像にしてくださいました。燕がかわいい。そしてみんな相変わらず芸達者。わたしは根っからの地味な性格なので、この華についていくのがたいへん…。

毎晩、布団をかぶって「ああ。明日の朝ごはんがたのしみだなあ」とわくわくしながら眠りにつく。今朝の主食ははじめてのパン屋さんのパン・ド・カンパーニュで、手造りの石窯で焼いたという味はまあまあ。まあまあ、はわたしの中ではかなりいいほう。午前中は水野千依『イメージの地層』を読みながら原稿書き。昼は水餃子をつくる。皮がぶ厚くてごろごろしていた。午後は4キロ走ってヨガをして服を着替えて電車にのる。向かい側に腰掛けている9歳くらいの少女が一心不乱になにか読んでいた。そっと盗み見るとアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』。おおっ。思わず心の中で、

てれれって
とろろっと
ぷるるっぷ
たったー

と盛大なファンファーレを少女に捧げ贈る。ほわんほわんと反響するファンファーレを胸に感じながら電車を降りて、図書館で原稿の続きを書く。夜は写真の整理をする。4年前にはじめたインスタグラム、根気がなくて上手く活用できていなかったのだけれど、これから週2回は投稿したいと思っている。

2024-03-21

七曜の断片





月曜日は山本貴光さんの新刊『文学のエコロジー』を読む。作品をするすると解析していく手つきが爽やか。「鮮やか」ではなく「爽やか」と書いたのは、文学批評にまつわる特殊な概念や装置がとても控えめにしか用いられていないせいか、語と語のどの接合部分にも胡乱な(投機的ないし山師的な)摩擦熱が発生していなかったから。単語間の配列が端正で読みながら清々しい気分になる。でもって火曜日はリチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読んだのだけれど、こちらは胡乱上等、怪しさ満点、暴飲暴食もかくやとばかりの荒ぶった言語運動。水曜日は春物の上着と靴を探しに街へ。上着はゴアテックス素材のトレンチコート。靴はカルフのMESTARI CONTROL。配色はSILVER LINING/TRUE NAVYにした。ついでにツヴィリングの包丁も購入した。高くてびっくりしたけれど思い切って買った。包丁を買ったのは生まれて初めて。大学入学の折と結婚の折に母が揃えてくれたヘンケルスと有次の包丁をいままで使い続けていたのだ。

先日は冬泉さんのお誕生日だったらしく、「いつもの連衆で表合でも巻いて贈りませんか」と声をかけてもらう。わたしは花の座の担当。

まれびとは全部伴天連花の茶屋

「全部」って表現どうなのよ、とちょっと思うけれど、わたしは音からつくるのでしばしばこういうことが起こる。中七は賑やかな和音風にしたかったらしい。

『すばる』4月号はティータイム特集。わたしもそれに便乗してキャロブ(いなごまめ)からコーヒーをつくる話を書いた。キャロブのコーヒーって自分には全く馴染みがないのだけど、年末にギリシャを旅した折、かの地の食材を眺めていたら「Carofee」という商品名で普通に販売されていた。ギリシャ人にとってのキャロブはフランス人にとってのシコレみたいなものなのかしら。以下の写真はル・コルビュジエの休暇小屋に立っているキャロブの木と拾った莢。

2024-03-09

『ロゴスと巻貝』刊行記念歌仙「初凪の巻」



『ロゴスと巻貝』刊行記念歌仙「初凪の巻」が満尾しました。わたしも挙句だけ参加させてもらっています。


『ロゴスと巻貝』に登場するモチーフが主旋律。そこへ句集『花と夜盗』をフレーバーとして使っていただいたようで。ありがとうございます。しかしそれにしてもみなさん上手い……いや本当にこれ上手すぎやしませんか? やりたい放題なのに独りよがりじゃない。次の連衆がうちやすいボールをちゃんと上げていく。博愛と連帯を感じさせるという意味でとても美しい歌仙です。わたしの挙句は神祇釈教も用意したのですが、 冬泉さん曰く「りゑさんの「巫山戯」がその役を果していると解しましょう」とのことで紙風船の句が採られました。

ガザを知らない二十四時間 冬泉
×○(ミッフィーのくちびるドラえもんのはな) 羊我堂
奢霸都館開店行列冷まじく りゑ
許されぬ恋だとばかり思ひ込み 岳史
喜喜昔圖古茶壺(ききとしてむかしゑがいたふるちやつぼ) 未来
エピタフのtu fui ego eris すり減つて 季何
確定申告ボイコットすれば花 胃齋

2024-03-08

強い夢、あるいは何かに向かおうとする心






嵐の去った海には石や木が散らかっている。岩の上で釣りをする家族、椅子に座ってお茶する女たち、家づくりをする少年たち、皆それぞれに遊ぶ。


誰かが積んだ石の塔。


別の場所にも家をつくる少年がいた。


原始と抽象とのあわいに心が立ち現れる。強い夢に似た、何かに向かおうとする心が。

2024-03-03

聖土曜日を飾る寄せ書き





土曜日は春の挙句をつくった。以下はその提出句。歌仙全体は日を改めて。

朧月夜に用を足す犬
聖土曜日を飾る寄せ書き
象に望みて甘茶一服
紙風船のまろぶ坂道
ごろりと臥して吹くシャボン玉

日曜日は朝からいかんともしがたい嵐。鎧戸を下ろし、暗い中でじっとしている。昼はカレーを作るが、食後の甘いものがなにもなく、外にも買いに出られない。なにもない状態でコーヒーを飲むのが辛いとつぶやくと、夫がキャラメルコーンフレークを作ってくれる。

2024-02-24

カルナヴァルの広場を抜けて





ル・アーヴルの知り合いが「ぼくの通ってた高校、サルトルが教えてたんだよ」と言うので興味をそそられ、Lycée François 1erの位置を調べたら、なんと街のど真ん中にあるショッピングモールの隣だった。こんな現実感(?)のある場所だったのか。ル・アーヴルに住んでいた頃は「いま『嘔吐』を読み返したらとんでもなく面白いんじゃないか?」としょっちゅう想像したものだけれど、知り合いの言葉が契機となって本日とうとう本屋さんで『嘔吐』を購入するに至った次第。ついでにカミュも買い直した。きれいな本で読みたくて。

わたしはカミュの文体が好きだ。何度読み返しても、まるで初めて出会ったかのような瑞々しい衝撃を受ける。心臓を鷲づかみにされる。読んでいる間中ずっと胸の痛みが止まない、そういう類の感動だ。

2024-02-18

つられて走る





日本経済新聞の17日付朝刊「交遊抄」に寄稿しました。ウェブ版はこちら。文中で触れた入交佐妃さんによる写真はこれのこと。神保町の珈琲店「さぼうる」でお茶していたとき、パシャっと一発で撮ってくれました。

高橋睦郎さんの新刊『花や鳥』の栞を書きました。栞の一般的位置付けというのが定かではないまま普通の感想を書いてしまったのですが、いまふと「あ。栞って出版おめでとうの挨拶なのかも」と思い至りました。たぶんこれ合ってますよね。

今日は朝8時半から海辺を散歩。空気が最高だった。たくさんの人がジョギングしてて、ほんと大勢走ってて、まるでジョギング星人たちが住む異星に迷い込んだ感じ。ぶらぶらしているうちになんだか郷に従った方がいいような気分になってきて、あたしも20分くらい走ってしまった。

2024-02-12

海辺の思考





きっとうろうろしてるにちがいないと。うろうろしながら書いているのでしょうと。わたしの文章には、そんなうろうろした印象があるらしい。
「うろうろしてますね」
と言われた。きのうも。
「うろうろしてますか?」
ときかれても、うまくこたえられない。
「うろうろってなんだろう……」
そうおもいながら、いま、海をみている。

2024-02-06

掲載のお知らせ、最近の展覧会など





●『群像』3月号に全速力の文「師走ギリシア紀行」を寄稿しています。●『すばる』3月号の空耳放浪記は「パスタパスタで暮れる年」。大晦日の詩歌を紹介しました。●『Precious』3月号巻頭に「俳人・小津夜景さんの句と軽やかに煌めくファッションで綴る早春賦/光る風に衣ゆらめき。春を着る、春を舞う」が掲載されています。全8頁。モデルは大政絢さん、撮影は藤森星児さんです。編集部から届いた写真から早春の香りがあふれていたので、かぶりすぎないよう季節感は控えめに、かつ大政絢さんの謎めく雰囲気が引き立つよう黒子に徹しました。

潮の香を残し燕は塔に消ゆ  夜景

●今日はゲラを3つ読んだ。ひとつは自分の。あとふたつは人様の本。●ニースのアジア美術館は無料なのに面白い企画展が多い。先週は「タンタン・エルジェ&チャン展」をやっていた。チャンというのはエルジェの出世作にして最高傑作『青い蓮』を描くのに協力した彼の親友で彫刻家の張充仁のこと。カラー版絵本の元となった新聞Le Petit Vingtièmeもずらりと揃って圧巻だった。下の写真はチャンに関するヴィデオ。上はLe Petit Vingtième掲載時の誌面と、チャンとエルジェの私物。

2024-02-01

正岡豊『白い箱』のひっぱりとひねり





32年ぶりの正岡豊の新作『白い箱』は正岡さんらしい歌集でした。しかしながらその「正岡さんらしさ」とは一体なんなのか。前衛短歌由来のリズムや新古今集っぽい遊戯性といった特徴はある種の潮流に共通する傾向であって正岡さんに固有とはいえない。私が『白い箱』を読みながら、ぱっとひとつ思いついたのは「結論をひっぱる」と「落句をひねる」の合体芸です。なかでも真骨頂といえるのが、

アマポーラ そらいろをしたくちびるがそこで戦う岩館真理子

こうしたひっぱり&ひねり方。このとき落句があまりにも奇抜だと意味が迷子になるわけですが、一般名詞ではなく固有名詞をあしらうことで現実世界の輪郭線をかろうじて維持する、この技がまた正岡さんならでは。固有名詞の重みで、意味のわからなさを凌駕していく作戦ですね。

だってそれでも人は死ぬから、それはそう、それはそうだがジャック・ラカンよ

小林一茶の「露の世は露の世ながらさりながら」を本歌取りしつつ、結論をひっぱり、落句をひねる。この下の句には大田南畝の「それにつけても金の欲しさよ」と同種の感触があり、付合にしても面白そうです。「ジャック・ラカン」もまるで時間ぎりぎりで決めた大外刈のようで実に見事な取り合わせ。モダンな狂歌の粋を感じさせます。

わたしはたしかにそこにはたどりつけないがかき氷に載せてるさくらんぼ

サウンドがサクサクしてて、まるでかき氷をかき混ぜるような感触をリスナーに味わわせているみたい。音が桜の花びらのように舞って、舞い散って、そして最後にひとつぶ、さくらんぼが残る。そのさくらんぼの、ちょっと間抜けな感じ。そこにひねりが隠されていそうです。

こわれないでもたもてないたましいの人体はいま光のホテル

壊れないでも保てない魂をかろうじて支える宿木、それは人体。押しとどめようもなく流れ去る月日を過客するエターナルなソウルの旅はけれども終わらない。個人的には震える魂からクォークのダンスを連想したり、そのクォークたちが踊ることで肉体の光り輝くエネルギーが生まれているのかもと想像したり。あと「たましいの」を枕詞のように使っているところが上手い。いや、よく見たら「こわれないでもたもてない」も「たましい」の序詞になっていますねこれ。なんという美しいひっぱり芸。素敵だなあ。その他、気ままに三首引用します。

みたこともないのにぼくの心臓のいろのゆうべの天の橋立
オリンパス・ペンを肩がけしてるのが父さん私の妻なのですよ
あしたあなたのまっしろな小骨になって越えたい木津川や宇治川を

2024-01-27

「物語」の根っこは「語」である





朝、海を眺めながらデイヴィッド・G・ラヌー『ハイク・ガイ』を読む。とてもキュートな小説。湊圭史さんの翻訳が素晴らしい。

妹いづこバーボン通りのストリッパ
somebody's little sister / Bourbon Street / stripper

きよしこの夜丑みつの酒場かな
silent night, holy night / three / at the bar

みな見たり成したり今や忘るるのみ
seen it all, done it all / and now / forgetting

いざさらば雪へ尿にて残す文
farewell! farewell! / pissed / in a bank of snow

つめたき世のおもてを掻きて鼠かな
scratching the snowy / surface of thing / mouse

話は変わって前回の日記について。須藤岳史さんがこんなことを書いてくれたのですが、うーんたしかに。というのは私、今回書きながらつくづく「物語って最強だなあ」と思ったんですよ。人間には生死を問わず尊厳があるでしょう? それを尊重するとなると物語以外の手段でアプローチするのは難しい。で、物語は真実を伝えるために生き残ってきた形式だなとあらためて認識しました。

物語の要諦は「本当か嘘か」ではなく「その文章がどんなノリで喋っているか」にあります。「物」と「語」では「語」の方が根っこで、要するにそれは話術、語りの技芸だということ。大きく、小さく、深く、浅く、切り込んで、よそ見して――どの語り方もそのつど真実を背負っているわけです。

2024-01-22

ミツバチのエッセイは蜜のように甘かった





このところ働きすぎていたみたいで、いきなりなにもできなくなってしまった。と、いまなんとなく書いて、あ、そうなんだ、とようやく気がついた。こういうときはなにもやらないに限る。いまからちょっと海辺を歩いてきます。

ただいま。4キロ歩いてきました。でもぜんぜん頭の中がすっきりしない。しないよう。しょうがない、さらにヨガでもやりますか…。

終わりました。やっと気分が晴れました。ええと、今日の話は『ロゴスと巻貝』について。これがですね、かつてないほど感想を頂戴しているんです。傾向としてはざっと二種類に分かれまして、ひとつは「笑った!」というもの。もうひとつは「なんて正直な人だろう」というもの。笑いに関しては、実現できているかはともかく常に心がけていることなので嬉しい。ただし他人がどこで笑ってくれているのかは分からないので後学のために友だちにたずねてみました。すると友だち曰く「いやあ、正直だなあと思って!」。はは、なんだ、そういうことか。しかしながら、私生活をあまねく暴露した文章がますます巷にあふれる今日、書きすぎないことを旨とした本書がなぜ「正直」に映ったのか。結局よくわからずじまいです。

また「装丁が綺麗」とおっしゃる方も多いです。今回、デザイナーの脇田あすかさんには「ディプティックのまだ見ぬ新作デザイン。ユニセックス仕様で」と、またイラストレーターの杉本さなえさんには「自然現象と動植物をからめた装画を」とお願いしました。カバー表のイラストと飾り罫、背の巻貝、裏の楕円フレームのロゴは村田金箔の透明箔押しで、そこだけシールのような手触りになっています。カバーをはずした本体は、天然パール調の光沢をはらんだ布のような紙。表紙見返しの黒の風合いや栞の白など、ぜひ手にとってたしかめていただければと存じます。

あ、そうだ。杉本さんの装画の中に蜂が飛んでいるのは、初校の段階ではミツバチについてのエッセイがあったからです。引用したのはレイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』。でも最終的に破棄してしまった。この本のことが好きすぎて、うまく書けなかったの。

2024-01-16

「読む」こととの距離感 『ロゴスと巻貝』著者インタビュー





「本チャンネル」はブック・コーディネーターの内沼晋太郎さんをメインホストに、本にまつわるあらゆることを扱うYouTube番組。その看板コンテンツ「今日発売の気になる新刊」に出演しました。

YouTubeはこちら。以下のX(旧ツイッター)でも公開されています。


自分のことを書くのって難しい。今回の本でもそれをひしひしと感じました。なかでも「人は一人で生きているわけじゃないから、自分のことを書こうとすると周囲にいる人たちの人生を大なり小なり暴露することになってしまう」というジレンマ。これがますます浮き彫りになり、いったいどう向き合えばいいのか考え込むことが多々ありました。

『ロゴスと巻貝』にはいろんな人が登場しますが、個人のプライバシーを尊重して、アスタルテ書房のササキさん以外は仮名を採用しています。もう二度と交わることのない人たちも少なくないけれど、でも、たとえそうであっても、彼らが語ったことを都合よく利用することは許されないと思い、慎重に、控えめに、本当に控えめに書きました。あと家族を出すというのも一筋縄ではいかない難問なんですよね。どんな家庭、どんな一族にも平坦ではない歴史があり、ペンを持つ者がそこに独断で踏み込むことの是非はいつだって悩ましいところです。

「人には尊厳がある」というのは、わたしがエッセイを書きながらつねに思い起こすことです。他者の人生は決してエッセイの具ではありません。書くという行為によって他者の実存を実は盗んでいるんじゃないかと自問したり、自分の言葉と他者の言葉との境界線をきちんと見極めているか気にかけたり、またあるいはごくシンプルに、彼らがこのエッセイを読んで「そういう意味で言ったんじゃない」と驚かないか想像したり。そんなことを忘れないようにしながら綴ったこのエッセイ集、ちょっと読んでみようかな、と思っていただけると嬉しいです。

2024-01-09

スタンプ記念日





俳句結社誌『鷹』1月号に巻頭エッセイを寄稿しています。そして『ロゴスと巻貝』が本日発売になりました。デザインは脇田あすかさん、イラストは杉本さなえさん、帯は山本貴光さん。全部で40篇のエッセイが収録されていて、AmazonのKindle版で巻頭詩、目次、最初の一篇が試し読みできます。

* * *

気管支炎はすっかり良くなった。一昨日は句集の栞と「すばる」の連載を書き上げ、夜は旧市街のBocca Nissaで知人と食事をする。料理はスパイシーな挽肉を添えたフムス、胡桃とカマンベールのロースト、バルバジュアン、トリュフのフェットチーネ、焼きかぼちゃのストラッチャテッラ添え、レモンタルトとヴェルヴェーヌのお茶。バルバジュアンはカステラール村の郷土料理で、玉葱、菠薐草、リコッタチーズなどを生地で挟んで揚げたラヴィオリのこと。カステラールの住民がモナコでそれを販売していたことで有名になり、今ではモナコの伝統料理になっている。ワインはFamille PerrinのCôtes-du-Rhône。白でなく赤にした。

昨日は別の雑誌のエッセイを書き、今日は『ロゴスと巻貝』の刊行日ということで著者インタビューの取材を受けた。どんなふうにできあがるのだろう。不安しかない。昼間、掃除をしながら俳人のRSさんとLINE。生まれて初めてLINEスタンプを投下。スタンプ記念日である。