2016-08-17

フィギュア(形象)/フィギュラル(比喩的)




いったい音楽のなにが素敵かというとですね、これはもう時と場合によっていかようにでも表現できるわけですが、どうしてもひとつに絞れと言われたら、音楽には意味がないところ、と答えたい。

意味がない、わからない、ということが音楽においては容易に至福となります。あっさりと、なんの差し障りもなく。

俳句を「読む」ときも、作品という形象(フィギュア)の中にわざわざ比喩的(フィギュラル)な意味をさがすようなことはしたくない。そういうのは、大変ナンセンスな行為だと思うのです。むしろ自分は形象(フィギュア)をつくっている土地の地質や気象、あるいはその土地における作家の過ごし方といったことに興味があります

ひとことでいうと、その句がその句たりうる空気の元、ですね。さらにシンプルに言えば、すなわち音楽性でしょうか。

写真はマーチング・バンドの路上ライブ開始前の光景。シニア以上シルバー未満、といった感じのメンバーでした。週末になると、こういった人々がどこからか湧いてきます。

音楽がたんなる構造となるのは、その核心が空虚だからであり、それがあらゆる現前の否定を「意味する」からである。したがって、音楽の構造が従う原理は「充溢した」記号に基づく構造のそれとはまったく異なった原理なのであり、そこでは記号が感覚を指示しようと意識の状態を指示しようと変わりはない。音楽的記号はいかなる実質をも根拠としないため、けっして実在の保証を持ち得ない。(ポール・ド・マン『盲目と洞察』)