2016-08-07

ダブルイメージについて





よく参考にしている湊圭史の文章を読んでいて、こんな句解にぶつかった。

ほどかれてゆく山コーヒーをもう一杯  筒井祥文

「重層的な世界観」と初めに書いたが、この句はまさにそれに当てはまると思う。一読、「山」には現実の山のイメージが浮かぶが、読み直してみると、喫茶店か自宅か、テーブルの上に書類を山積みにしてこなしてゆく、という日常的な光景が描かれている。このダブルイメージの効果を生んでいるのは、川柳独特の省略(仕事、書類、という現実の文脈を示唆する言葉を隠している)が、ひと目では気づかれないかたちで仕組まれているからである。(湊圭史 川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(3)

上の文章で気になったのが「ダブルイメージの効果を生んでいるのは、川柳独特の省略(仕事、書類、という現実の文脈を示唆する言葉を隠している)が、ひと目では気づかれないかたちで仕組まれている」という箇所。

はたしてこのような省略は川柳独特のものなのか? 俳句も短歌もイメージの重層的手法とは宿命的関係を持っており、むしろ川柳より強固のような気が、わたしには、する。もっともその宿命的関係について、今ここで詳しく語るつもりはない。この手の話は単純かつ局所的に例を引かないと、たちまち訳が分からなくなるから。

隆起してやがて崩るる思ひ出や 山の名前の珈琲二杯   
小池純代

小池純代には仕事の一景を詠んだ作品が数多くあるが、掲歌の「山」はこみあげる記憶(単独的光景)、うずたかき雑務(一般的光景)、それらに埋もれながら一息つく私の手にあるブルーマウンテン、といったトリプルイメージを形成している。

また両作品はコーヒーをおかわりする点も同じだが、小池の方には寄せ返す記憶の運動と反復するコーヒーとのあいだにイメージの形態の重なりがある。

さらに言うと、小池の方には短歌の構造のちょうど真ん中に切れ字、すなわち情感の「山」が存在し、なおかつこの切れ字のうしろに空白の一音を挟むことでしっかりとその高さが強調されている。そしてその状態から「やがて崩るる」を実践するかのごとく、おもむろに「やまのなまえの」といった〈音韻の地すべり〉が起こってゆく。上の句の最後と下の句の最初の音が同じ「や」であるのも芸が細かい。

おそらくこの〈音韻の地すべり〉は掲歌の情趣の要でもあるだろう。この柔らかくほどけてゆくような音の感覚こそ、〈なだらかな日常〉という時間のリアリティを読者に伝えると同時に〈こみあげる記憶の標高〉を切なく振り仰ぎ見させる秘術なのだ。

思ひ出のやうにこみあげふたたびをしづかなりけり夜の噴水
小池純代