2016-08-22

〈世界〉の手前から





若いころの福田若之の句で有名なものというと、そのほとんどが〈世界の把持〉に関係しています。

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて  福田若之
春はすぐそこだけどパスワードが違う
ヒヤシンスしあわせがどうしても要る
君はセカイの外に帰省し無色の町

これらは知識、符号(シーニュ)、幸福、彩色といったブレークスルーによって世界が獲得されると語り手が信じている句です。ここには〈世界に対する確信〉ないし〈主体と世界との間の関係の絶対性〉というのが以前の福田さんにとって秀句を生み出しやすいモチーフであったことが割とはっきり表れています。

ところで、さいきんの福田さんの作品に対して、わたしは〈主体と世界との間の関係の絶対性〉から〈世界はいかにして主体へと開示されるか?〉といった視座に関心が移ってきたような印象を持っているのですが、そう感じていた矢先、こんな句を発見しました。

てざわりがあじさいをばらばらに知る  福田若之

実はこれを読んだとき「福田さんは、本当にこの通りのことを言いたかったのかしら?」と少し考え込みました。この句は最初にあげた例と同じく、観察者が観察対象を把握しようとする句、つまり〈主客合一としての世界認識〉を扱っています。しかしですね、福田さんのふだんのエッセイの感じや、俳誌『オルガン』でのいくつかの試みや、この句にそこはかとなく漂う香りなどから、わたしは「もしかすると福田さんは〈てざわりという盲目性〉から〈知るという名証性〉に移行する瞬間の神秘的光景を書きたかったのでは?」と思ったんですよ。で、この推論を元に、この句に感じたことをメモしてみました。

1.「あじさい」は目的格をとらない方がいい。なぜならば目的格をとると、紫陽花と呼ばれる〈像の統一性〉をあらかじめ語り手が有していたことになり、〈盲目性からの、世界との衝撃的邂逅〉すなわち存在の開け(Lichtung)を体現できないから。
2.〈てざわりという感性〉が〈ばらばらという不安定な了解〉を経て〈知るという悟性〉に至る、といった構造をつくりだすためには、「ばらばら」という語が「あじさい」の前に置かれるのが望ましい。

この2点をふまえつつ〈盲目性の中、部分から全体へと開けてゆく存在の明るみ〉を表現するには、たとえば次のような改作が可能なのではないでしょうか。

てざわりがばらばらにあじさいと知る (改作例)

この改作例が妥当かどうかはさておき、ここで使用したasとしての「と」は、存在の開けをめぐる鍵として、おそらく福田さんにとって重要な助詞になると思われます。

またもしも上に書いたことがわたしの思い過ごしで、「てざわりがあじさいをばらばらに知る」という句の意図が、ここに書かれた内容そのままであった場合は、

てのひらが樹をバラバラにしてみせる  前田一石

と読み比べてみるのも面白いかもしれません。

「てのひら」はある人間と世界との接触面である。他人と握手するにせよ、モノを掴みとるにしろ、個人がもつ関係性の最前線となる。手相として人格や将来が現れると信じられたりするのも、内部と外部の交わりの複雑さを受け止めるこうした身体的位置から納得される。この一句では、その「てのひら」が「樹をバラバラに」してしまう。関係を築く始まりとなるべき部位が外部への暴力性を露わにする。「~みせる」という句末はこの「てのひら」が語り手とは別個の存在として意識されていることを表すのだろうか。個人の主体性という位置から制御不能な関係のあり方を描いている、と読んでおく。(湊圭史 川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞(1)

あらかじめ客体を知った上で、触手でもってそれを分析的に辿り直すこと、すなわち再-認識(世界を掴み直すこと)が目的である福田さんの句。それに対し、外界に触れるてのひら、すなわち世界への触手が、しばしば世界それ自体に模される樹を把持するどころかそれを崩壊させてしまうと告白する前田一石の句。

後者の句は〈存在の開けの頓挫〉〈主体と世界との間の制御不能性〉〈どうしても対象化できない世界〉を詠んでいますが、決してペシミズムに陥っているわけではありません。なぜなら世界と主体とはいつでも非対称的なものであるから。またさらに言えば、世界を悟るとは、そのつど主体の〈知〉が揺らいでしまう事件を意味するからです。

エクリチュールとは結局のところ、それなりの悟りなのである。悟り(「禅」におけるできごと)とは、多少なりとも強い地殻変動であり(厳粛なものではまったくない)、認識や主体を揺るがせるものである。つまり、悟りは言葉の空虚を生じさせてゆく。(ロラン・バルト『記号の国』)