2016-09-27

「三句の渡り」理論とハイカイザシオン




9月24日の週刊「川柳時評」で野間幸恵の俳句「琴線は鳥の部分を脱いでゆく」について小池正博がすごく面白いことを書いている。

この句を私は『琴線→鳥の部分→脱いでゆく』の三つの部分に解体して読んでいるのだが、それを連句の三句の渡りに変換すれば、たとえば次のようになるかも知れない。

琴線はわが故郷の寒椿
鳥の部品を包む冬麗
うすもののように記憶を脱いでゆく

前句と付句の二句の関係性、三句の渡りの関係性を、もし一句で表現しようとすれば、線条的な意味の連鎖はいったん解体され、日常次元を超えた言葉の世界がそこに成立する。そのことによって、作品は広い時空を獲得することができる。一句によって表現できるスケールは本来、大きなものであるはずだ。

このあと小池はこの「三句の渡り」理論の遠源を攝津幸彦と予想し「路地裏を夜汽車と思う金魚かな」を例として出している。これを読んで思ったのは、小池の「三句の渡り」理論がウリポ(潜在的文学工房)の本に出てくる「ハイカイザシオン」に少し似ている、ということ。ハイカイザシオンというのは、長い詩の脚韻だけを拾って発句にする試みで、レイモン・クノーがステファヌ・マラルメの詩を俳諧化したものが有名である。たしかにマラルメの詩はむずかしすぎる上にながすぎるので俳訳したくなる。こんな風に。

Le vierge, le vivace et le bel aujourd'hui
Va-t-il nous déchirer avec un coup d'aile ivre
Ce lac dur oublié que hante sous le givre
Le transparent glacier des vols qui n'ont pas fui !

純潔にして生気あり、はた美はしき「けふ」の日よ、
勢猛き鼓翼の一搏に砕き裂くべきか、
かの無慈悲なる湖水の厚氷、
飛び去りえざりける羽影の透きて見ゆるその厚氷を。(上田敏訳)


Aujourd'hui
Ivre,
Le givre
Pas fui !

けふ酔ひて霧氷逃げだすこともなき(拙訳)

図らずもソツのない訳になってしまったが、たしかにこの方法を意識すると、表面上は突飛でありながらも次元を越えたどこかで繋がっているような、連断性の豊かな句が生まれるかもしれない。

なおハイカイザシオンについてはクノー著『棒・数字・文字』に詳しい描写がある。またこの方法を実際に考案したジャック・ルーボーオクタビオ・パス、エドアルド・サンギネッティ、チャールズ・トムリンソンらと行った西伊英仏連句をそのまま『連歌』というタイトルで出版しており、さらに自著では「水無瀬三吟」についても幾度か言及しているようだ。