日本には「ヒロ・ヤマガタ問題」やら「クリスチャン・ラッセン問題」やらといった前世紀からのアポリアがいまだ解決されないまま現存しているようですが、個人的にヒロ・ヤマガタに関しては芸人であると理解しているので割と心は穏やかです。
で、一方のラッセン。これをどう位置づけるか。知的な切り口を好む人には『
ラッセンとは何だったのか?』を読んでもらうとして、どちらかというとわたしはそうですね、ここ2、3年くらいでしょうか、いちど清水の舞台からとびおりる覚悟でラッセンにどっぷりつかってみようかなという思いがあって。このアルバム・ジャケットに出会ったせいで。
この何周か回っちゃった感じ…ラッセン解釈がこんな凄い境地に達していたとは。もしも自分が中学生だったらたぶんこの気持ち悪さにはまってしまったと思う(よかった、もう大人で)。とはいえラッセン・ブームの頃の傷がいまだ癒えない人が見たら、このジャケットも「もうやめて。死んじゃう…」って感じですよねきっと。ごめんなさい。でもね、いちおう
こちらにアルバムの音源があるのですけど、こちらは嘘じゃなく流しっぱなしにすると心地良いです。押し付けがましくない愛嬌と隠れ家的な緩さとが相まって、リラックスできます。
ラッセンの描く海は、いいことずくめの海だ。
みんなの大好きなもので埋め尽くされた、ご都合主義的な海だ。
このいいことずくめな画面構築こそが、ラッセン絵画を特徴づけるものなのではないか。万人にとっていとおしく、見目に心地いいイコンや表象が、無節操にひたすらサンプリングされていく。その手つきはアプロプリエーションとも言うべき暴力性を内包しており、視覚的快楽の追求においては迷いがなく、決然とし、戦闘的でさえある。
ラッセン芸術に触れることで、くじらやいるかがいかに賢くて愛らしい人類の伴侶であり、軽はずみに殺すことの許されない生き物かということが自ずから明らかになってくるだろう。これは、ラッセンを通して目覚めた人々によるニューエイジのトリビュートアルバムだ。
(本稿は椹木野衣『シミュレーショニズム』と『日本・現代・美術』の問題意識にピギーバックし、日本の行き詰まった現代ARTの次の一手を模索するものである)