2016-09-16

水と〈裂く〉こと



『猫蓑通信』80号で小池正博氏が「関係性の文学」と題してこんな川柳を紹介している。

水面にひびかぬように紙を裂く  加藤久子
魚裂く真昼私も存在する
レタス裂く窓いっぱいの異人船

裂くことがもたらす、自己の際立つ感覚。物質は裂けば裂くほど小さくなってしまうが、それとあべこべに裂く人自身の存在感はどこまでも大きく深まってゆく。

ところで、この裂くという行為が上記の句群において「水面」「魚」「レタス」「異人船」といった水の縁語(レタスは96%と野菜の中でもっとも水分が豊富)と関係づけられていることはおそらく偶然ではない。

はとばまであんずの花が散つて来て船といふ船は白く塗られぬ  斎藤史

この歌には「異人船」の句とよく似た情趣がある。そしてやはり、あんずの花弁のとめどなくこま切れになってゆく光景が水の縁語と結びついている。

〈水の気配の中で裂く〉とき〈わたし〉が予感するのは、この世に存在する〈わたし〉自身の深さと、決して知ることのないあの世のことだ。水(鏡)を生/死の境界とするのは昔からある見立てだが、上の作品群はこの見立てに素直に従うことで安定した魅力を手に入れた。もっとも、この見立てにそのままの状態では従わない作品というのも当然ある。たとえば「水」「裂く」「あの世」のバランスを巧妙に組みかえ、さらに語り手自身のマニフェストをこっそり紛れ込ませた俳句がこれ。

死がふたりを分かつまで剥くレタスかな  西原天気